2010年7月30日金曜日

Lund: 最終日


来てしまった最終日。旅の計画中、Jは長く居てくれたら嬉しいと言ってくれ、とても嬉しかったけど、最終日は来るのである。Govinda'sで昼ご飯を食べ、Jは授業へ、SとMと私はLund大学の図書館へ向かった。

私はこの先の移動のチケットを準備したかったので、MのIDを拝借し、無事印刷完了。図書館のcafeでfikaする。大学構内特有の雰囲気が心地よい。少ないけどいくつかある各テーブルにお花が生けてあった。図書館の建物自体も好きだった。大きなレンガ造りにつたが生い茂っている。私はレンガとつたに弱い。

JもMもあと2年は学生。Jはその先環境系のマスターのコースに進むことを考えていたが、それならFeirbugもありじゃないかと薦めてみた。JやS、Mにとても学ぶことを刺激されたけど、もし仮に自分がマスターをやるならば、Lundがいいと思う程、この街が私は好きになった。前回いい思いをしなかったスウェーデンだけど、LundやMalmö、まだちゃんと行ってないけどKopenhagenも、要するにSkåneがとても好きになった。


Jが好きなSabenac(写真上)をSと買って帰って、3人で食べた。一足先にSがドイツに帰る。Jは寮で別れ、私は駅まで見送りに。電車はちょっと遅れていた。Sと一緒にここまで来れて、3人で会えてよかった。今度はSの住むTübingenで集まろうと約束をして、見送った。

駅前のスーパーでお土産と、切手(さすがにデザインがいい)を買い、寮へ戻る。私はMalmöから夜行バスに乗るのでまだ時間がある。晩ごはんにパンと、Jがポップコーンを作ってくれると言うのでキッチンへ。金曜日の夜の寮のキッチンは、フロアの住人が皆でちょっとパーティーみたいにテーブルを囲っていた。懐かしいポップコーンの音の後、ボールにあけて塩をまぶしてソファで食べる。Jはスウェーデンに住みたいなら、スウェーデン人と結婚したらなんて言うけど、その時はじめて私の状況を話した。またひとつ、奥の部分を共有して、そろそろ出発の時間になり部屋へ戻ると、そこには悲劇が。

JのMacBookだけが忽然と部屋から消えていたのだ。私のパスポートにiPhone、金目のものは無事だったが、それだけがなかった。意味がわからない。Jはスウェーデンだから大丈夫と言って、いつも部屋の鍵を掛けず、実質解放状態にしていたのは、やはりまずかったようだ。かなり動揺したJが放つ日本語は、なぜかおもしろかった(ごめん。)が、こんな大事な時に私は行かなければならない。私もJの動揺が伝わってきておかしくなりつつ、本来なら一緒に探したいのに、自分が何もできないことを詫びて出発した。



(27. Feb. 2009)

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2010年7月27日火曜日

Malmö: 散策


この日もJはMalmöで授業。Lundのまちなかにあるfalafel屋さんで、昼食がてらfalafelを買い、食べながら急いで駅を目指し電車に飛び乗った。Lundも多からず移民が暮らす街で、それもあってかfalafelは安価でおいしかった。そのボリュームにお腹を膨らませてMalmö到着。今回はJの授業には付いていかず、Sと私で街を散策してみることにした。

大学とは反対の、駅から真っ直ぐ中心部に進むと、大きな市庁舎前広場があった。そこに特設されているスケートリンク。果たして市民用なのか、何かイベントがあったのか、誰も滑っている人はいないけど、ミラーボールがクレーンで吊るされていた。Lundと違って街も大きいので建物の高さが倍くらい違う。小ぶりでかわいいのはLundだけど、MalmöはSkåneの中心として栄える素敵な都市の香りがする。


市庁舎も立派で赤いレンガの壁面や装飾が素敵なのだけど、その横の薬局がまさにつぼだった(写真)。なんて歴史の感じられる気品溢れる店内なのでしょう。2階には見渡す限り、当時使われていただろう薬品瓶が綺麗に並べられ、天井や照明など見れば見る程ため息が出る。ドラッグストア優位な日本からすると、薬局の、それも建物・店内に感動する考えられない。まさに歴史と文化の違い。その他も建物の入り口や抜け口など、道路に面する面に粋な装飾が多かった。


ちなみにこれが薬局の外観。現在の暮らしの中で、こうした古い文化財が現役で使われていることがほんとに心地よかった。ぐるっと街を回っていると、Jが言っていた日本食を扱うお店にノボリで気がついた。新しそうな店内は食品や雑貨が扱われていて、赤ちゃんがハイハイしていた。そのお母さんで超黒髪クールビューティーなオーナーさんと少し話をした。学生時代フィンランドに留学して以来、10年ほど北欧在住らしい。北海道出身の人で、話の中で特に印象的に残ったのが「死ぬまでに京都の桜が見たい」と言われたことだった。この人もそうだけど、こちらに長く住む日本人ほど、皆、口を揃えたように「日本が一番いいよ」と言う。そんなことを言われても、私の歪んだ精神からすると、そう言える立場に私も早くなりたいと思う気持ちが、大きくなるだけである。


市庁舎前のcafeでfikaをした。メニューが描かれたボート、甘いものが入った瓶など、陳列がかわいく、wifi環境もあって、長くいるにも居心地がよさそうな店だった。授業後のJと落ち合って一緒に帰る。駅構内に展示された写真パネルに、大股開きで日焼けをするおばさんを見つけた。あれはどうかと皆で突っ込みつつも、それを駅という公共機関に展示してしまうスウェーデンの感覚に、私は目を輝かせた。

(26. Feb. 2009)

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2010年7月26日月曜日

Lund: Govinda's


Jのおすすめのご飯やさん"Govinda's"へ行く。
自転車を持ったMと適当なところで落ち合って、街の真ん中ほど近い「ちょっと入った」ところにお店はあった。ばっちりお昼な時間帯だけど、混んでる理由はそれだけでない。お店にいる、キッチンから料理を手に取っている人、席に座って食べている人皆がにこにこして活気があった。日替わりで1メニュー、値段を忘れたけど手頃で嬉しいお値段で、皆が楽しくなる理由が詰まったお店。私たちも早く美味しい料理を食べたくて、なんとか席を確保し、列に並ぶ。

彼らといるのが心地よいのは、食べたいものを共有していることも大きいと思う。Sは少しなら肉を、というスタンスだが、肉食ではない。JとMは肉は食べない。環境保護的な観点なので、動物性のものを食べないわけではない。京都では、私が好きな店=Jが既に行った店だった。彼らが京都に来てから半年後に知り合ったけど、それまでに蓄積された個々の行動から、ぐっと近くなるのは一瞬だった。

料理はボリュームも満点で、とっても美味しかった。日替わりだから、毎日来ようかなんて声も出たほどで。4人が同じように話せる共通言語というのがないので、私が彼らのように全く苦なく英語が使えたらいいのにと悔やむ。JとMはいつでも妖精がさえずりをしているようて可愛かった。


その後、Jは授業に行き、少し離れた町の観光案内所で働いているMが、Lundにある"Alte Schwedische Haus Museum"を案内してくれた。古いスウェーディッシュ様式の住宅や暮らしが再現されていて、当時の人の現在人より小さいサイズ感や、バイキングの存在が感じられておもしろかった。
Mはドイツの大学に満足せずスウェーデンに留学し、そのままこちらで卒業した。Mがスウェーデンが好きなことがよく伝わってくるし、そんなMを私は素敵だなと思う。室内展示も充実してたけど、外も敷地に昔の教会(写真)とかが再現されていて、ひとつひとつ覗いて入った。授業が終わったJも登場して、まちをぷらぷらしながら、JおすすめのcafeへFikaしに行くことに。


"Fika"=cafeでほっこりすること。
昔ながらの建物にスタイリッシュな雰囲気がプラスされて、ひとの温もりのある素敵なcafe。写真をそういえば撮ってなかった。JとMは紅茶。Sと私はカフェ。陳列されていたケーキは、どれもいい具合に美味しかった!くどかったり、甘すぎたりしないかと一通りのことが頭をよぎるけど、華奢なケーキより、やっぱりこういうある程度地に着いた感じが私好み。
外はちょっと時雨れたけど、暖まって出るころには、雨上がりの石畳が照らされて綺麗だった。

(25. Feb. 2009)

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2010年7月24日土曜日

Nagano: 穂高養生園


15時半頃、待ちに待った(待たせた?)養生園着。
6月末に私が思い立ち、声を掛けてからこの日まで、3人ともスパイラルにうきうき度をあげながら待ちわびていた。養生園で働く友達つながりだけど、3人で会うのはこれが初めてなので、それもまた楽しみだった。到着した日と翌日はカフェで働いているという彼女。着いてから知ったけど、カフェは16時半までらしい。施設とお部屋を案内してもらい、急いで待ちわびているだろう彼女の元へ。20分ほど山を進んだところに“木と人とカフェ”を発見。キッチンで働く彼女を外から見つめ、嬉しい再会のハグ!朝からのアクティブな活動を報告し、夜にまた会うことを楽しみにして、夜ごはんのため“里の家”に戻る。

養生園の食事は一日2回(10時と17時半)。動物性の食材を使用せず、とれたてのお野菜を用い、自然治癒力を高めることを考えて作られている。この時の食事は、豆腐のキッシュと焼きなすのソース、酵素玄米ごはんに長芋寒天、たまねぎとしいたけのスープなどなど(写真上)。料理の説明も聞きながら、ひとつひとつ美味しく頂いていると、すでにごはんとスープのおかわりに行こうとする友達。私もテーブルにあったおかずをちょっとおかわりした。“里の家”と“森の家”でそれぞれの宿泊客が全員ひと間に会し、食事をする。付けられた量が多かったり、苦手なものがある場合は“預け箸”を使って、さらのお皿に預け、欲しい人がもらう。このテーブルの作法も、まさに養生園を物語っている。


デザートもあった。カシューナッツのムースにラズベリーのソース。既にごはんでいっぱいのため休憩していると、カフェでの今日の仕事を終えた友達登場。2人はかつて一緒にシェアハウスに住んでいて、それぞれアジア育ちなので、タイ語も交えたそんな話がおもしろい。積もる話で盛り上がっていると、20時のヨガタイム。ひさびさに身体を解す心地よさに、疲れと眠気がくる。終了後、3人でお風呂に入りまったりタイム。私は彼女から身につけた、タオルに付く水気を少なくするための「水払い」がお気に入りになった。


翌朝、早くもチェックアウトなので、荷物をまとめてからお散歩へ。スタッフの人に連れられ、木と人とカフェを下の道を通って目指す。友達の言う“ソーダ水色”の川のあるところも通った(写真中上)。お散歩なのだけど、山なので急勾配もあり息があがる。カフェでは友達が、まさに“キッチンのあるじ”のようにケーキを焼く準備をしていた。気の知れる友達の中で、唯一同業種だった彼女。本来の自分に戻って、居るべく場所に行くために準備をしている姿は、スーツ姿より何より素敵。自分にも無事その時が訪れるようにパワーをもらう。


朝食後、友達の言う“原生林”に辿り着くべく、再びカフェに寄り、目的地を目指す。
私からするとバリバリの山ガールな彼女の山感覚はとても頼もしい。フェリーで北海道へ行き、自転車でバイカーばりに各地を巡った乙女な彼女。水気を多く含んだ柔軟性のある土に、私の好きな“こもれび”。生い茂った自然に差し込む“こもれび”は格別である。結局“原生林”にはあとちょっとのところで辿り着けず引き返し、カフェでちょっとだけほっこりして駅へ向かうタクシーに乗った。

私は彼女たちのようなたくましき素敵な女子が大好きだ。皆それぞれに単独行動してきたけど、こうして出会ってそれぞれが育ててきた感覚を共有できることがすごく嬉しい。卒業前の旅で一人移動に懲りてしまったので、今回は道中も行く先でも友達と同じ時間を過ごせてとてもよかった。それぞれにそれぞれの道があるので長く時間を過ごすことは難しいが、どこかでずっとつながっていたいと思う。

Nagano: 穂高


10時半頃、穂高着。松本から乗車した登山者の多くもここで下車。レンタサイクルの客引きに合い、基盤の良さと勧誘の巧さに惹かれ、この土地を楽しんでから養生園へ向かうことにした。

東光寺には仁王像もある門の前に巨大な鉄の下駄があり、ばっちり変なポーズを決めて家族連れに撮ってもらった。山に向かって一直線に伸びる道は気持ちがいい。いつも写真は撮る側だけど、友達がいいカメラを持っていたので珍しくたくさん被写体に入れてもらいました。安曇野スイス村のワイナリーで2人ともお酒に弱いけど一通り味見し、お昼にそばを求めて大王わさび農場へ。花わさび蕎麦にわさびソフトクリームにわさび三昧。友達の男前な口と胃腸の働きに驚きながら、わさび田を鑑賞。雲行きと周遊バスの時間に合わせて駅へと折り返す。

地図キーパーの私は不覚にも二度ほど、レンタサイクルのおばさんに聞いた道を誤った。自転車を飛ばしやすい(飛ばしたくなる)道なので、修正のロスも合ったけどそれも愛嬌。1時間200円、800円で満喫の自転車の旅を終え、いよいよ友達の待つ養生園へ。

Nagano: 松本


ひさしぶりの夜行バス。目的地のリンクから予約した阪急バスは、とてもよかった!あのごみごみした八条口ではなく、新阪急ホテル前からの出発。わざわざ選ばなくとも3列シートで、足を延ばして快眠できました。これから夜行バスを利用するときは、阪急バスにします!

この、ひさびさの“旅”の感じに友達と2人してかなりうきうき。6時過ぎ、予定通り松本着。私は初めての松本に、酸素が薄いような感覚をおぼえる。目的地で働く友達のおすすめ、「まるも」という民宿の喫茶店を目指し、中町通りの蔵作りの風情を楽しむ。

喫茶店のオープンまで少し時間があったので、松本城へ。北アルプスをバックに映える松本城。海もそうだけど、あんなに高い山がここの人たちには日常的な、私の非日常が新鮮。また、これだけ早朝からアクティブに活動することも久しくなく、自分たちの生活の変化を痛感する。


「まるも」のモーニングはご覧の通り、あの食パンにテンションがあがります。私の中で食パンは、あまり友好関係にない“チームふわふわ”に属しますが、いい焼き加減と促されてやってみた+お塩の食べた方で楽しめました。昭和レトロな、ダークトーンな空間に包まれ腹ごしらえし、穂高へ向かう。

2010年7月23日金曜日

Kyoto: 宵山


7月16日(金)、今年の宵山は夜8時頃に出陣。
生まれて此の方京都なのに、一昨年初めてちゃんと目の当たりにした祇園祭。
はまった私は山鉾と、宵山の(今夜で終わり、明日は巡行という)雰囲気を堪能しながら、ひとり手ぬぐいを買い集めるため奔走します。大勢の人が家族・友人・恋人連れで楽しむ中、時に尋常じゃないペースで先を急ぎ、いい場面をカメラに納める様は、おじさんカメラマンたちと同類でしょう。

32基の山鉾は、四条烏丸から西にほとんどが点在する。今年は唯一東南に在る、まだ見たことのない保昌山からスタートすることにした。浴衣を着た子供たちが祇園祭のお歌を歌って山鉾グッズを売っている。手ぬぐいは品目になかったが、竹の持ち手の「縁結び 保昌山」と描かれたうちわを購入。気分をあげながら東西に、徐々に北に進みながら、出店を出している友達の会社前へと向かう。


去年、山鉾の手ぬぐいの柄は、毎年変わるものではない(一部除く)と気づき、主に鉾系統を買いに走った。今年は山を攻めよう、と思っていたので山の多い南から行くのは正解だった。山は鉾と違ってお囃子メンズたちがいないので、どこの山でも子供たちがお歌を歌っていて可愛かった。
私が一、二に好きな船鉾(写真上)に差し掛かる。その手前で出町柳のfalafel gardenの出店を発見。お店の仕様とはちょっと違う、ファラフェルを食らいながら、船鉾を鑑賞。大きくなればお囃子を奏でることになるであろう、予備軍の少年たちが船の先頭に陣取っていた。明日の巡行は見れないけれど、細い新町通りから四条通りという大海に姿を現す船鉾を思い出して、にんまりした。
やはり特別な月鉾。最も重く、背が高い月鉾は、一番綺麗だとも思う。一昨年させてもらった、ちまき売り巫女レディースは今年も健在(写真中)。むしろ今年もタイミングがよければ休みを取って、応募しようかと思っていた。月鉾で厄よけちまきを買おうと思っていたが、既に完売。さすが月鉾である。

待ち合わせの10時に時間も押してきたので、新町を北上。大きな鉾が多い四条通りより北側は、混み方が違う。なんとか三条室町まで来ると、ひと一倍威勢のいい声でタコスを売る友達が。道中何人か耳を引く呼び声の人は居たけども、彼女が一番でした。とりあえず生ビールを頼み飲んでいると、これから一緒に長野へ向かう友達も登場。タコスも食べて祭りムードむんむんの中、談笑してその場を後にした。


手ぬぐいは、来年は来れないから極力買おうと思っていたけど、ある程度買い集めると満足し、また今度でいいかという気分になった。ものには限度。いっぱいより溢れてしまうのは苦しいものである。
今年のお気に入りは木賊山。売り子の女の子が、四種類(水流、ねこ、うさぎ、木賊)を紹介してくれたけど、見本がなく、水流を水牛だと思って買った一枚がよかった。後で見本を置いているブースで見たけど、四種類ともデザインも色もよかった。あと、伯牙山。二種類、両方とも単色だけど、動きのあるデザインがよかった。毎年売られている油天神山の変わり種、山鉾の配置図の手ぬぐいも手に入れ、大満足な2010年の宵山でした。

2010年7月13日火曜日

Malmö: にんじんと、その他


LundからMalmöへは新快速くらいの速さの電車で15分ほど。
Skåne地方で使える、電車のチケットを買う時にお得なカード(PasmoやSuicaのようなチャージはするが、発券する必要がある)で、Sと私はチケットを買い、ちょっと遠足気分にうきうきした。

Malmöはスウェーデン第3に大きい都市(といっても人口30万人ほど)なので、Lundからすると駅も大きい。
急ぎ足で大学へ向かい、授業前にJのクラスメイトとも顔を合わせた。勝手な印象、スウェーデンを留学先に選ぶ学生は、なんだかとても先例されている気がした。ドイツにしろ日本にしろ、その国に惹かれる人というのは、その興味の対象・関心の深度にともない共通した性格や思考が根底にあると思う。行き先は人それぞれだけど、スウェーデンや北欧諸国の場合、留学生の質がいいと思った。

この日が初回だという留学生も多く受ける"Realisum"の授業に参加した。英語の授業だったけど、何も苦なく聞いている彼らに対し、自分の英語力のなさに頭が詰まる。社会学的範疇だけど、辛うじて?リヴァイアサンに反応できたくらいだった。
私という人間は、果たして大学に行くべきだったのか、これは入学当初から付きまとっている疑問だけど、この時も自分の学術的センスのなさに肩身が狭かった。興味はあるけど、感覚的センスの方が勝っている気もするし、どちらにも転べるのかもしれないけど、結局まだどちらにも身を定められずにいるのである。


授業後、学生の自治会?のような組織に顔を出すというJ。
Jは帰国後、専門を一つ増やし、ダブルフルタイム学生と自称するほど忙しく、授業以外のことにも積極的に頑張っていた。
Sと私は先にLundに帰ることにするが、その会議が始まる前に、連れて行きたい場所があるとのこと。
「にんじんと、その他」(写真上)という、Bio専門のスーパーだった。ネーミングにまたきゅんとして、Malmöでもこういう場所が確認できたことを嬉しく思い、店内を見て回る。Jは量り売りのナッツ類を持って来た袋に詰めている。

ドイツのFreiburgという特異な街の、さらにその濃度の高いVaubanにいたために、Bioな食品を扱うスーパーは身近だった。ALNATURAというスーパーがそれにあたり、Freiburgには2つあるが、SはALNATURA製品は知っていても、そのスーパーが存在するとは知らなかった。冷蔵されている豆腐ハンバーグを見つけ、その裏のシールを彼らに見せて、これは"made in Freiburg"だと、私は得意げに言った。いつかSとJにFreiburgを案内したいと思う。

(24. Feb. 2009)

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2010年7月12日月曜日

Lund: 寒くない


Jに連れられLundの街を歩く。
ここもFreiburgや他のドイツの街のように自転車が多い。自分が好きな似通った風景にどこか落ち着くものがある。レンガのだいたいの建物の高さが2階か3階建てで、その小ぶり感がまたいいのだ。そして始まるJの案内。いつからそんなガイド口調が上手かったんだと思うほど小のり調子で、市立図書館〜、一番いい本屋〜とそれぞれ地元語も交えて教えてくれる。ルンドのドーム(大聖堂)は、中が白く、装飾の少ない様式だった。ものすごく寒いスウェーデンなのだ、そんなに手の込んだ作業ができるほど温かい時期が少ないからなのかなと思った。

実はMünchenの方が寒かった。Lundはお天気もよく、何より雪が全然降っていない。その2年前の2月末、StockholmからKopenhagenまで旅行するはずだった冬生まれの2人組は、3日目2都市目のGöteborgで高熱に倒れ続行不可となり、ドイツへ自らを強制送還したのだ。その時のトラウマで相当覚悟して構えていた私だったが、この辺り"Skåne(スコーネ)"と呼ばれる地方は丘が多く、雪が降ってもあまり積もらないらしい(北部に比べて)。5週間の弾丸な旅行で風邪を引くわけにもいかない私に思わぬ朗報であった。

ドイツは冬セメスターの試験が終わり休みなのだが、スウェーデンはまた学期の周期が違うようでJは授業がある。Malmö大学でも学生登録をしているらしく、午後からは授業のあるJに付いてMalmöに行くことにした。

(24. Feb. 2009)

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Lund: Hej

Jは街と反対側の学生寮に住んでいた。
駅から線路をまたぐ鉄橋を渡ると、使われていない列車があった。Lundのユースホステルらしい。そのかわいさに、Jの部屋じゃなくてこっちに泊まろうかなんて冗談も言いながら、半年振りの再会を実感する。
彼らと一緒に過ごした京都は、学生として暮らした京都で一番楽しい時だった。
私たちの共通語は当時から日本語で、私がドイツに行った後だからそこ楽しめて、4年で卒業していたら出会えなかった、ほんとに気の合う仲間なのだ。
寮は私の知るドイツの学生寮からすると小振りな3階建てで、その温かみがまさに“北欧”な感じがした。
Jの部屋は割と日本の一人部屋に近いサイズで、いろんなものが散らかっていてかわいかった。荷物をひとまず置き、晩ご飯の食糧を買いに出る。廊下ですれ違うと皆互いに「Hej(ヘェイ)」と挨拶をする。きゅんとくる響きである。

駅前のおそらく割と多くのLund市民の食を担っているだろうスーパーでお買い物。
普通のスーパーだけど、Bioのコーナーや野菜があったり、Jもスウェーデンのビオマークについて教えてくれた。朝ご飯などとりあえず必要かなと思うものをカゴに入れるが、自分でバーコードリーダーを持ち、バーコードを読み取っていくJ。バーコードを読み取った人専用のレジでバーコードリーダーを渡し、カードをかざせば会計は一瞬で済んだ。もちろん従来型のレジの人がバーコードを読み取るレジもあるのだが、システムを用い自分がひと手間かけ、効率化の先にある効果を選ぶJなのだ。
3人でいるのはどこにいるにしても楽しい。寮のキッチンはそのフロアごとの中央に1カ所、15、6人が使う、それに値する収納と広さがあった。冷蔵庫の陣地分けや掃除に関する寮ならではの文化がとても懐かしい。ここでも来る人皆気さくに「Hej」と言ってくれ、それだけでなんだか嬉しくなる。

料理をするのにSと私で試行錯誤していると、後ろから何か声がかかった気がして振り向くと、とてもかわいらしい女の子。話でよく聞いていたJの彼女のMだった。私たちが料理に気を取られていたせいか、Mが気配なく現れたせいか、そこにいた存在にかなり驚いた。彼女がドイツ人だと知っていたが、私はあんなにかわいいドイツ人に初めて出会った。
実はSとJと私のファーストコンタクトの場所にMもいて、その時私が一緒だった韓国人の友達と、Mのかわいさにどこの国の人だろうと想像したものだった。あとからドイツ人と聞いてびっくりしたのだが、もちろんドイツ人がかわいくないわけではなく、Mにドイツ人とは一線を画した雰囲気があるのだ。

ごはんを食べ片付けをし、部屋でまったりしながら明日の予定を話す。私はJの寝袋を借りて皆で転がって寝た。

(23. Feb. 2009)


2010年7月11日日曜日

Heidelberg-Malmö-Lund: 16時間バス+フェリー+鉄道


友達Sはたくさん食糧をバックパックに入れて来ていた。
こちらの夜行バスも日本ととりわけ大きさも変わらず、荷物も多いので落ち着くポジションを何とか確保し、それをちょっともらう。私が好きなKräuterbutter(ハーブやスパイス入りのバター)があり、そういえば好きだったのになぜか忘れていたことに気づいた。パンと相性バツグンである。りんごも食べたらとりあえず寝る。

早朝、バスがまもなく着きそうな段階に差しかかっている頃に目が覚める。
着いたのはHamburg。何か近代的なバスターミナルで、今度はKopenhagen行きのバスが来るのを待つ。ここにヨーロッパ各地からのバスが集い、客は乗り換えを行う。
バスに乗ると、通路挟んで横に中国人の女の子がふたり。パリに留学中で、割と弾丸な北欧旅行を企てているようだった。同じアジアから来ているものとして親近感をおぼえる。前には黒人のおばさんがひとり。ブリュッセル辺りから来たと言っていた。Sは中国語もフランス語も話せるので、その多様さをいつもすばらしく思う。

あまり意識していなかたけど、そういえば海を渡るのである。
かつて「ドイツ 鉄道の旅」という本で、鉄道を丸ごとフェリーに乗せる“渡り鳥のコース”なるルートがあることを知り、いつか乗ってみたいと思っていたのがこれなのだ。Heidelberg-Malmö間でバスのチケットを買うとき、特にそんなことを明記しているわけでもなく、デンマークを通ることさえ忘れていた。


ドイツはPuttgardenでパスコントロールを受け出国、トラムの抜き打ちチケット検査みたいでちょっと緊張した。フェリー内に停まったバスから出て、45分間のフェリーを楽しもうと船内を徘徊する。黒人のおばさんはフランス語のみ会話できるようなので、Sと私も頭にある限りのフランス語を出して楽しくおしゃべりをする。デッキへ出ると、ものすごい強風。立っていることもままならないので、楽しむ間もなく室内へ退散。レストランや免税のお店もあり、皆思い思いの時間を過ごした後、バスへと戻る。

デンマーク、Rødbyで入国のパスコントロール。制服に身を包んだおじさんとおばさんが車内に見回ってくる。だいたいの人がすんなりOKだったが、前の黒人のおばさんがどうやら引っかかっているようだ。中国人の子とSは通訳に名乗り出ようとしたほど、皆で心配したが、結局おばさんは外に連れ出されたまま帰ってこなかった。おばさんの荷物を取りに来た人に聞くと、至上2度目の「国境で人が捕まる」に遭遇したことがわかった。
以前スイスで国境警察が列車に乗り込んで来たとき、同室のコンパートメントの黒人の兄さんが、横で手錠をかけられたことがあった。彼はDresdenからNapoliまで運ぶ気満々だったようだが、このおばさんはどうも自らその気があったようには思えない。割と楽しくコミュニケーションを取った後だったので、ショックだった。憶測を走らせてもしょうがないが、もし仮にさせられていたなら、とても哀れに思う。

Kopenhagenに着き、中国人の彼女たちと分かれる。バスを降りたのは鉄道駅が見える、車が行き交う道路上だったが、そこで何かの手違いでここからMalmöまでのバスは出ないことを告げられた。鉄道でMalmöまで移動することになり、買ったチケットを駅構内のバス会社に請求するはずだったが見つからず、今後私が乗るときに請求することになった。これに際してKopenhagen初上陸の私たちを、同じバスだったシャツが素敵な紳士がちょっと助けてくれ、移動中も相席し色々話をしてくれた。おじさんはMalmö近郊に住む人で、割とあのバスを使うことがあるそうだ。北欧に住む人たちからすると、オランダから流れてくる麻薬に迷惑していると言っていた。“まさに”な光景に出くわしたけど、島国の人が憧れる陸続きの国の悩みどころを知った。

15時半頃、ようやくLundに着き、友達Jと再会!髭をたくわえて、また新たな一面を見せてくれている。

(22. 23. Feb. 2009)

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Freiburg-Heidelberg: 3時間鉄道

FreiburgからHeidelbergまでは一瞬だった。
途中、Tübingenに住む友達も予定通り同じ電車に乗り合わせて来て、再会をした。
これから彼女とSwedenのLundに住む友達の元に行く。前から計画をして、楽しみにしていたのに、この時ばかりはFreiburgに残してきたおもいが大きすぎて、気持ちを前に向けられなかった。それを彼女も察してか、私は涙も出てくるし、2人いるのに静かな電車だった。

Freiburgで人と過ごす時間が長くなると、去るときに辛くなると思い、わざとあまり来ることを知らせずやってきた。それに私がそんなにFreiburgに求められている自信もなかった。
ある時はそれが功を奏して、あまりの再会の時の短さを残念がってくれる人もいた。だけれど向こうにとって何気ない一言が、こちらに突き刺さってくるもので、どうして彼らがここに居られて私が居られないのかと、自分がここを目指して来た長さを思うと、信じられないくらい悔しかった。
それは私が本気で滞在しなかったからだと、今となっては百も承知なのだけど、私があの街に居られないという事実が、今まで感じた何よりをも勝って辛かった。
自分の可能性を感じるからこそ、自分に対して悔しくて、必ず戻ってくるとより一層強くおもった。

Heidelbergは、初めて駅の外に出た。辺りは既に真っ暗で、あまり様子がわからない。駅近くのチャイニーズ・レストランで晩ご飯を食べ、ゆっくりしても割と時間に余裕がある。気分もなんとか落ち着いてきたので、Swedenでの楽しいことを考えられるようになった。その反面、前回同じく2月のSwedenの寒さに破れたことを思い出し、覚悟してバスに乗り込んだ。

(22. Feb. 2009)


2010年7月10日土曜日

Kyoto: モネのひまわり


家族で鰻を食べた帰り、ISETANの花屋で「モネのひまわり」を見つけた。
その隣には「ゴッホのひまわり」。これまでこの花屋さんを気にかけたことはなかったけど、京都駅を徘徊後、やっぱり気になったので「東北八重」という品種も合わせて買って帰ることにした。

仕事中、行き詰まった時に小児科の外来・入院の患者一覧の名前を見て気分転換します。
一筋縄ではいかない名前が多いですが、最近のヒットは「百峰(もね)ちゃん」です。年配のジェネレーションも私らからすると新鮮な名前があり、「今朝次(けさじ)さん」はさわやかでよいなと思いました。

右奥がモネ、左がゴッホ、下が東北八重です。むかし小学校の頃、森村泰昌の京都近代国立美術館で行われた個展で「ゴッホのひまわりプリクラ」があり、ちょうどあの真ん中のところに顔をはめて満足げに撮ったおぼえがあります。思えばかなりの衝動で、母に連れてもらい、岡崎デビューをしたのでした。

2010年7月9日金曜日

Freiburg: 出発

Freiburgでは、ここに載せられるような写真はほとんど撮らなかった。
1年間いた当時、Vaubanを中心にかなり撮り尽くしていたので、写真を撮るということを意識的に必要としていなかった。


日を追うごとにタイトになっていくスケジュール。
Freiburg最後の朝、起きて見た壁は白かったのか。
いつぞや私が忘れていった、洗顔を受け取り、荷物をすべて持ってそこを去った。

一度Hbfへ行き、スーツケースをロッカーに突込み、街へ戻る。
13時、café Aspektにて教授と再会。相変わらず私のツボである。この日はFasnachtだが、去年のFasnachtもこの教授と一緒だったので、偶然と言うか、時期的には確立の高い出会いである。この後行われるパレードは、私は先に行かなければならないため見れない。Fasnachtを考慮して決めた旅程ではないので仕方がない。次の待ち合わせの時間も気になりつつ、再会を楽しんでいるところに電話が鳴る。
なんと昨日泊めてもらった友達宅の鍵を所持したままだった。
家に届けられる時間はなく、次の最後の待ち合わせが駅だったので、取りに来てもらうことになった。毎度充分という時間ではないが、京都で会おうと約束をし、その場を去ってHbfに急いだ。

ぎりぎり連絡が取れた寮の同居人V。実は半年イギリスにエラスムスで行っていたらしい。Freiburgには数日前戻ってきて、前日の夜お兄さんと飲んでいるところに誘ってくれたが、行ける状態になかったので、このギリギリの再会となった。話に聞いたことのあった、かなり年の離れたお兄さんも一緒に来てくれて、束の間の嬉しい立ち話。Vはほんととても良い子だったのに、どうして私はあのWGでもっとオープンになれなかったのか。それを考えると本当に後悔で心が締め付けられる。
6人共同のWGで、その一人と付き合っていたが別れてしまったと、色んな想いの詰まった笑顔で触れてほしくないように言った。もう一人Vと同様に、私が入寮したすぐ後に学生生活をスタートさせたAも引っ越して、もう皆私が知っている人はいないようだ。Vも実家Düsseldorfに近い、Kölnに席を置いて勉強することを考えているらしい。私が将来的にまたこちらに来る意思を彼女も知っているので、その時はKölnを案内してくれるといい、Vとはまたつながっていられることをとても嬉しく思った。その時はもっと色んなことを話したいと強く思う。

鍵の主も到着して、迷惑をかけたことを詫びながら、私は行かなければならない。
15:07発、彼らに見送られて列車に乗り込み、何人か友達に電話で挨拶をし、気付いたら動き出していた。

(22. Feb. 2009)

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2010年7月4日日曜日

Freiburg: 再会③


泊めてもらっていた友人宅で、バスルームからお湯が出ないという惨事が発生したため、最後の一泊を別の友人宅へ移ることにした。KappelからZäringenへ。こちらもほとんど来たことがなかったので、改めてVaubanに入り浸っていたことを自覚する。

お昼に駅でSushi屋の元同僚の友人と再会。日本好きな彼女はこの日も日本男児たちを従えていた。彼らと話してみると、奈良にある某大学の私の好きな教授が連れて来た一軍だと判明。ならばその教授がいるはずだと、即電話しつながり有頂天。毎年夏に来ることは知ってるけど、冬も毎年になりつつあるらしい。明日会えることをものすごく楽しみにする。

妙な軍団は移転したFuna Sushiに向かう。アジア食品を販売する店もある、Siegesdenkmalの建物の一角。場所的にはそりゃ駅の方がよかったと思うが、あのオーナーだから仕方がない。仕事中の友人をびっくりさせ、お土産を渡すとその時の彼女に即していたのかとても喜んでくれた。もうすぐウエイトレスの職業訓練の試験を受けるのだが、あのオーナーのこの店でここまで続けるのは他ではないストレスも受け、大変だったと思う。おそらくこの時お土産として渡したお守りの効き目が、彼女からの結婚式の招待状となって今度は私を救ってくれたのだと思う。彼女たちともゆっくりしないまま、私はまた次の待ち合わせのため、Miiteに向かった。

当時、パキスタン人の友人とアフガニスタン人の知り合いの教授の母国語が同じということがわかり、会わせる機会を作りたいと思っていたのを実行したのだ。
なかなか遭遇できないこの2国間のローカルな関係性が垣間見え、教授の奥さんの東アジア人に対する偏見が判明したり、一筋縄では行かない会であった。それでも教授はおおらかな人柄なので和やかな場で終わった。友人は当時より友達も増え、学業も次はDrと順調なので今更この会は必要なかったかもしれないけど、私としては貴重な機会であり気も済んだ。
結果的にFreiburgで会ったドイツ人、日本人以外の友達は皆イスラーム圏の人だったな。


Miiteへ戻り分かれると、またその辺で友人と遭遇。おそらくこれで3回目。cafeで何日か前のお好み焼きメンバが次第に揃い、だらだらする。その後の予定がそれぞれの待っている人を介して同じということが判明し、また新たに集って飲みに行く。そしてまた増員して飲みに行く。この日の翌日はFastnachtというカーニバルなので、二軒目にはその出場部隊の人たちが衣装をまとって盛り上がっていた。やはりFreiburgのビールが美味しいのか、この日のこの集いがそうさせたのか、ものすごく気持ちよく酔いました。そして、極限まで気持ちよく酔った私はチアリーダーに戻ります。ある一定限度以上に達すると、この現象が生まれますが、この時はほんとに酔えて、タチが悪かったな・・・

(21. Feb. 2009)

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Tokyo: 原美術館


本当は7月以降は社内(新大阪)勤務になるはずが、引き続き残留することに。
基本的に遠くに行きたい(大阪に行きたくない)と思っているので、私としてはよかった。ただJR東海(新幹線)と冷房の温度をめぐる寒い戦いを強いられるのが辛い。前に聞いて判明したけど、26.5℃でエコ出張なんておかしいでしょう。せめて28℃くらいにしてもらわないと、毎週乗る者としては恐怖でしかない。

そんな風に毒づきながらも、品川で下車。
何かで「ウィリアム エグルストン:パリ−京都」という個展が原美術館で開催されていることを知り、気になったので行くことにした。この写真家の人も初めて知ったのだけど、テーマにまず食いつき、説明に「カラー写真を芸術的表現の域にまで高めた先駆者」とあったので、カメラ購入検討中な私は見ておこうと思ったのです。
京急で北品川に移動し、歩いて原美術館を目指すも回りに気を取られていたせいか、外枠を一周してしまっていた。この辺り、御殿山は緑が多くセコムの入った家の多い住宅街なのですね。それにミャンマー、モーリタニア、セルビアモンテネグロ大使館なんて文字が表示されるものだから、興味がうずくのです。代官山の大使館勢もいいですが、何かぐっと来るものがあります。結局ミャンマー大使館だけ遭遇でき、原美術館に到着。
ちょうど同じ頃、シャトルバスも到着し、品川から無料走行が行われていることを初めて知る。入館しチケットを買うと、まもなくミュージアムガイドが始まるとのこと。ちょっとの彷徨いがもたらす絶妙なタイミング。美術館において、学芸員の方の解説を聞きながら回れるなんて嬉しい。この建物自体についてと、この個展についてのお話を聞くことができた。

それによれば、もともと私邸として作られたこの建物は、大使館や米軍将校のゲストハウスとして使われるという歴史を経て来たらしい。色んな用途に対応し人が踏み入れて来たわけだが、現在の美術館としてもアーティストにとても好かれているようで、人気の通った味のある空間だった。私は通過点として一度軍用になれる建物が好きなんだなと、うすうす気付いていた嗜好を確信することができた。
個展はというと、この人はその街の象徴的なものは撮らず、色彩的に感性にひっかかった被写体を撮っているようだった。なので、実際それが汚かったとしても関係なし。そんなに汚い物を捉えた写真が多かったわけではなく、自信のドローイングと合わせた展示も色彩的に楽しめたが、私は現実的なのです。きれいなものだけ、きれいだと思ったものだけ見せるのは、日頃目を向けない物を見るきっかけにはなると思うが、別にそれを訴えているわけではないので、私としてはそこまでです。と、現在の感覚からするとそう思ってしまうけど、この人以前はあまりこうした写真がなかったのだとすれば、「芸術的表現」と言われる通りなのでしょう。

久しぶりに美術館という場所に来れて、写真を楽しみ感性を働かせてよかったけど、やはり建物が好みだったことが一番の収穫でした。

2010年7月3日土曜日

Freiburg: 再会②


Hbf: 中央駅近くの jos fritz cafe に行く。学生街バリバリな感じのcafeより、ここのような反骨精神を抱いた学生が大人になり、いまなお自由に発言をし社会に訴える、そんな歴史を経たムードが好きだ(実際に市民・学生が80年代に住宅難ゆえこの建物を占拠している)。毎月色んなテーマ(特にゲイやSexなどが多い)を持った集いや映画の上映、フリーマーケットなどなど催されている。メニューにもその意思がよく反映され、それはまさに私の好みである。横に同じ名前の本屋があり、cafeとつながっているのでそっちも覗きながらcafeに落ち着く。
この旅の間、あちこちに向けて手紙を書くが、なにせここまで移動が慌ただしかったので、書いても出せずに所持したままだったりした。ここで書き上げたものと合わせてPostに持って行き投函する。

UC-cafeで友達と会う。Freiburg時代の友達は大半が留学生同士だったので、ほとんどが同時期にそれぞれの国に帰国した。彼は数少ないまだFreiburgで学生をしている友達の一人。着いてから連絡を取ろうと思ったら、着いた日にトラムの駅で偶然出会い、驚きながら約束ができた。試験を控えてちょっとピリピリしているようだったけど、彼の目論みを聞いて将来的な楽しみができた。彼に会うと、モロッコと日本はBABEL(映画)でつながっていると、いつも知り合った時にことを思い出す。

夕方、泊めてもらっている友人宅に、当時参加していたグループの皆さまが集まってくれ、一緒に晩ご飯を作って食べた。私がいない1年半という期間は、見た目には大きな変化は現れないけど、その分それぞれの道をFreiburgで進めていることが私にとっては何より羨ましく思えた。そんなにゆっくりしゃべっていないうちに、伏見からもってきた日本酒を皆で回し飲みしたのに当たり、一人いつの間にか寝てしまった・・・ 
日本酒を飲む時は、時間と場所をよく考えなければならないことを初めて知った。

(20. Feb. 2009)

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2010年7月2日金曜日

Kyoto: 良き休日


ちょっと休みが貰えたので、ゆっくり京都に滞在中。
今日は歯医者に行ってお茶でもして大人しく帰ろうと思ったら。大阪に住んでる韓国人の友人とその彼氏のドイツ人が京都に来るとのこと。宇治に行き、その後はちはちに行きたいらしい。久しくはちはちには行っておらず、そろそろ行きたいなと思っていたところに吉報。以前はちはちのパンをあげたこともあったので気になっているらしい。

雨に見舞われながらも、久々に今出川から御池までの好きなお店などを覗き、夕方、京都駅彼らとで落ち合い、いざはちはちへ。久しぶりのあの生い茂った感と、築100年ほど経つ民家を堪能。辿り着くプロセスと空間が特異なので、彼らも期待通り楽しんでくれていることに満足する。閉店も近いのでパンはほとんど売れていた。コーヒーとフルーツブレッドでほっこりする。最近コンサートがないなとHPをチェックして思っていたところ、忙しくでできないらしい。
時が経つというのはそういうことなのか、おじさんの口から「移転」という言葉が出た。10年後はあの場所にはないかもしれないけど、あまり不安がない。かぼちゃの種やクルミなど材料の高騰に悩まされても、はちはちがはちはちで在り続けることは信じられる。

祇園に行きたいとドイツ人の友人は言うが、奴はこれまでに何回かそこには行っているので、上七軒のビアガーデンはどうかと提案して行くことになった。ちょうど昨日から今年も歌舞練場のお庭で始まったビアガーデン。市さんでバイトしていた時に連れてもらった以来、一般客として来るのは初めてである。当たってみるとお庭の席は予約でいっぱいだが、中のサロンは空きがあるとのこと。最初のセット(生ビール、冷や奴、枝豆)を頼み、人間観察+解説をする。
大半の舞妓はんたちはお庭の方にいるのでそちらを眺めていると、芸妓のお姉さんが横にかけてくれた。舞妓はん芸妓はんはあちこち回ったりしているのだけど、こういう場において、わかりやすい外国人は得である。目の前にすると急にシャイになるので、私らが促し、彼女が写真をお願いすると、舞妓はんを呼んで来て下さることに。少しして舞妓はん登場。市さんの子ではないが、この人もまた見覚えのあるお顔。とても気さくな方で、写真を撮った後今日の偶然の状況など話していると、私のことを上七軒のどこかで見た顔だと覚えていてくださっていた!さすがその職業というべきか、おそるべし舞妓はんの記憶力。ならばと市さんなど最近の上七軒の動向などちょっと聞くことができた。
こちらが覚えている顔はあちこちにあるのだが、向こうもおそらく何かを感づいている気はするが、こんな風に気さくに話せる面々ではない。むしろ私が一番楽しんでいるくらい嬉しかった。一度外に出てしまうと、なかなか入りづらい世界ではあるが、来てみてよかった。

通常、一見さんお断りの世界をこんなに敷居を低く気軽に楽しめるのは、この2ヶ月だけです。上七軒歌舞練場のビアガーデン、おすすめです。

2010年7月1日木曜日

Freiburg: 再会



お昼に友人と再会。前日スノボ行く?と聞かれたけど、自分が楽しめるイメージを抱けなかったので街にて。Freiburg後からVegan色を強めたので、そんな私を気遣ってくれてVaubanのHaus 037にあるレストラン: Süden へ。
Südenは、Vaubanの食文化の象徴だろう。例えばランチのメニューは毎日、(ビーガン)(ベジタリアン)と(特にルール付けのなし)の3パターンが日替わりで用意されている。基本的にここのベジ料理は美味しいけど、ちょっと頑張ったものは発展途上だったりもする。どちらにせよ、昼間から飲むのは気持ちがよい。

Seeparkのほうで練習があるらしいので、街へ戻ってお茶をして、Seeparkを散歩する。2回の時参加したSommerkursでは、ここの寮に1ヶ月住んでいたので、ここもまた色んな思い出が詰まっていたりする。私は芝生に直面すると、二言目に転がりたいと言うことが多いのだが、その時にコンディション(主に洋装)を理由に実行できないことが大半である。私の変わり?にこの人が転がったこともあったが、この日の芝生はアイスです。塔を目指してアイスと化した芝生の斜面を登り→滑ることを何度か繰り返し、楽しそうにはしゃいでいる。一方、私はスーパーの袋を敷いて滑る作戦も巧く行かず、中途半端にひざを着いたまま、水に恐くて入れないペンギンみたいだった。

そんなことをしていたせいかお腹が減り、見送った後再びVaubanへ行き、Falafelを食べることにした。これもまた、Freiburgにおいて私のしなければならない事項の一つである。京都・出町柳のFalafelの次に食べたのが、このVaubanのケバブ屋のFalafelであり、Vaubanのケバブ屋だからベジタリアンメニューとして用意されているのかと思ったFalafelである。その後ドイツの場合、ケバブ屋にFalafelありきということがわかったので、「見つけたら食べる」ほど食べた結果、Freiburgの2トップであることが判明した。
この店において、私は決まって"Falafel im Yufka, Bitte."とだけ言い続け、それを言うだけに留めていた。常連と言っても恥ずかしくないほど行っていたから、もうちょっと何か交流してもいいとも思ったけど、あの(確か)イラン出身の夫婦の仕事を割って入る気にはなれなかった。
いつも店内は自分一人かもう一人客がいるか程度だったけど、この日はおじさんの友人・仲間と見られる数人がいて、おじさんが見たことないくらいの笑顔で楽しそうに話し盛り上がっていた。店の前に停めてある車に乗り込むときも、わざわざ外へ行き見送っていた。なんだかとても嬉しそうな雰囲気がこちらにも伝わってきて、完食後店を去るとき、笑顔で答えてくれた。私を覚えていてくれて、また今度いつか行った時に覚えてくれていたら、とても嬉しい。

寮の私の部屋は閉まっていて、唯一名前の変わっていなかった隣の部屋の子のベルを押しても反応がなかった。残念だけど仕方がないと思いながら、友達が住んでいる別の棟へ行く。時間も時間だったから、ヨネスケ張りの隣の晩ご飯になるかもと察したら、案の定そうだった。どっきりだったので、最初はショックと言えんばかりの驚きを見せてくれたけど、次第に慣れてくれた。この部屋にはちょくちょく遊びにきたけど、晩ご飯を一緒に食べたことがそう言えばなかったことを後悔した。机には私の好みな匂い漂うパキスタン料理が並んでいたのである。Falafelを食べる時間を間違ったとも後悔しつつ、それでも出してくれた料理は完食した。

(19. Feb. 2009)

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