2011年2月21日月曜日

そして、帰国

2月19日15時過ぎ、100名以上の子供たちは村3台のバスに分かれて村を出発し、
デュッセルドルフ空港からチャーター便に乗って帰国の途に着きました。
私はその日14時から遅番で、いつもなら30分前くらいに出勤するけど、早めの13時頃に行ってみると、ちょうど子供たちはお着替え中でした。普段子供たちは寄付され、何年も使われているような服を来ているけど、この時は新品やそれに近いもので、最後のおめかしをします。アフガニスタンの小さい女の子なんてほんとかわいい・・ 
それぞれの子供の最後の晴れ姿を目に焼き付けながら、順番にTschüßと言いチュウをしました。
その中には前日、土壇場で急遽帰国が決まった子がいました。16日に救急車で外来受診から帰って来たときに、私が出迎えたその子です。その時、パジャマに着替えさせながら、ドクターは何て言っていたの?と聞くと、“家に帰って、パパ、ママに会えるよ”と言っていたと言い、それを聞いた私も職員も、まさか今回の帰国のことではないと思っていました。その子の場合、半年前に来てからオペや治療など特に具体的なことをしている様子はなく、ただ村で生活している状態。何故急遽帰国が決まったかと言うと、オペをするならかなり大掛かりになるため、一度帰国してまた来るということ。半年後、私はまた会えるのでそれがとても楽しみです。

帰国に伴い、1ヶ月ほど前から帰国が確実な子供と場合によっては帰国できる子のリストができ、服や入院中に病院でもらったものが入れられたカバンが作られます。この子の場合、そのカバンも作られていなかったので、ほんとに土壇場でした。
このように急に帰れるようになる子も入れば、帰国ができなくなる子もいます。まだ顔が見られるのは嬉しい反面、帰ってほしいと思っていたのにそれが叶わなかったのはなんだか複雑です。
前日の昼ご飯の後、帰る子供の名前が食堂で発表されましたが、特に大きな女の子の場合は、仲良かった子同士の別れで、ずっと泣いている子もいます。小さな子供の場合、まだあまり理解していない子が多いですが、それでも"家に帰ること"、
"さよならを言うこと"はわかっているので、仲良かった女の子同士がTschüßを言いっている光景はかなり切なかったです。

出発の時、子供たちがバスに乗り込む姿を、私は16日に来た子供たちと一緒に窓を少し開けてみていました。
新しく来た子供はまず最初の数週間は隔離されるのですが、この隔離部屋にいた子の一人もバスに乗り込みました。診断のために来て、すぐ病院に行き、帰れると判断された場合はこの子のようになります。
私はすでにバスに乗車し、こちらに気付いてくれた子と手を触り合ったり、投げキッスをし合いながら、全体的な様子を見ていました。見送りに来られる村中のスタッフに見送られ、バスが出発し、振り返ってみると、隔離部屋にいる子のほとんどが、ツターっと静かに涙を流していました。全く言葉も文化も異なる国で不安でいっぱいの中、自分が来たルートを逆に辿れること、その先にあることを思って泣いたのでしょう。あまりにしんみりした空気だったので、ちょうどおやつの時間だったのでそちらに気を持っていき、皆でアーモンドと香辛料の効いたクッキーを食べました。この時のおやつが美味しいものでよかった・・・

前回11月のアンゴラの援助飛行の時は、まだ働き始めて1ヶ月ほどだったので、それほど感傷っぽくならなかったけど、4ヶ月半の間、お互い本気で向き合った子供たちのことは、まだまだ残像が見えそうです。食い意地が強く、かなり大きくなってしまった子の重量感とか、肌がすべすべのグルジアの赤ちゃんとか・・ 
アンゴラの援助飛行の場合、先に子供たちが帰国し、その後で新しい子供たちが来ますが、アフガニスタン方面の場合、順番が逆になります。本部の人に聞いたところ、毎回タジキスタンの航空会社をチャーターするそうですが、今回は空港で待っていてもそれらしき機体は現れず、キルギスタン航空の機体からパートナー団体の人が現れ、それだとわかったそうです。

帰国前日には、その機体に乗ってきた、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、グルジア、アルメニアの現地パートナー団体の人や、チャーター便の乗組員の人を招いてパーティーがありました。キルギスタンエアーのCAのお姉さんたち、日本人と間違われるほど顔がEast Asia系で、スタイルが抜群と噂になってました。ちょうどこの援助飛行の取材で、平和村のことを長年記事に書いておられる、カタログハウスの方もいらっしゃいました。
平和村の代表が最初に挨拶をし、長年連携しているパートナー団体の人に挨拶をする中、その人の来村や日本からの援助のことも取り上げ、異例に思えるほど、全体のスピーチからしても割合を割いていました。日本からの援助なしにはこの場は開けないと言っていたほど。実際、日本にウルルンで紹介される前と後では、平和村の姿や規模はかなり違い、その前の状態も知っているこのカタログハウスの記者さんに託された希望は、ウルルン無き今かなり大きい。日々働いていると、どれだけの日本の人がドイツのNGOを支援しているか、正規の職員こそ知る機会がないように思うので、ここまで代表が言及したことは嬉しかった。ただかなり休みの少ない激務なので、この時も勤務中や翌日早番の人が多いのか、参加している人が少なかったのは残念だったけど。

以上、アフガニスタン方面の援助飛行リポートでした。

2011年2月18日金曜日

初日


またコンタクトを付けたまま寝てしまった。
というのは仕事がハードだったわけではなく、グルジアの"黒ワイン"を飲んだから。
私たちが住む宿舎には、前回のアフガン方面の援助飛行で子供たちと一緒に来た、グルジア人のドクターも一緒に住んでいて、そのお母さんが今回の援助飛行で来て、色んなグルジアの食べ物やお酒やらを持ってきてくれたのだ。
ちなみにグルジア、ワイン発祥の地らしい。飲んだ黒ワインや、写真の干し柿のような、お手製のグルジアスイーツも自然な甘みが美味しかった。
平和村に来ている子供たちの母国には、それぞれドイツの平和村と連携をしている団体があるが、グルジアの平和村はこのドクターとお母さん、そしてお父さんの3人で運営しているそうだ。家族親戚皆お医者さんらしい。明日治療を終えた子供たちと共に、このドクターもそのお母さんも一緒に母国へ帰るので、昨日はグルジアパーティーでした。

新しい子供たちが来て、実質の初日。職員も皆まだ子供たちのことを掴めていない状態。
私は昨日も遅番で、既にいる子供たちにおやつを配るのに、手を焼いていた。前回11月のアンゴラの援助飛行のときもそうだったが、新しい子供たちが来ると、既にいる子供たちのテンションがとてもあがる。まぁいつもかもしれないが、どうもひどい。冬じゃなければ外でもっと伸び伸びできるのに、最近はほぼ部屋の中で生活しているので、有り余るエネルギーがすべて部屋の中に放出されるとほんとにカオス。身体的に抵抗が出来ない子に、それを理解していない子がちょっかい(むしろ危害)を加えたり、心臓と足が悪い子が二段ベッドによじ登ったりするともう。うるさいところに叫んでことを鎮圧させるのは、効き目も愚か、場合によっては子供がそれをおもしろがってことが悪化するだけなので、基本したくないが、反射的に声のボリュームがあがる。

そんなところにお達しが。今から隔離棟に行ってくれと。
基本そこは男の子か女の子の担当が行くので、小さい子供担当だとこんな機会がないと行くことはない。前回はまったくお呼びがなかったので、昨日が初めてでした。
隔離棟は2階が持ち場になったが、行ってみるとものすごく泣き叫んでいる子がいた。その子はカニ歩きのように足を開いて必死に痛みと戦いながら訴えているようだった。もう世界の終わりのような泣き方。少数のグルジアの男の子たちは部屋でおもちゃで遊んでいるけど、タジキスタンとアフガニスタンの女の子たちが、みんな並んで私の方をじっと見つめていた。不安と緊張と好奇心の混ざった眼差し。とりあえず、自分の名前を言い、あなたの名前は?と聞くと、それぞれが答えてくれた。一人、一番年長の子が前に一度来ていたようで、少しドイツ語がわかるのが大いなる私の助け。私ともう一人がとりあえずこの時間帯のここの担当になって、おもちゃの後片付け、晩ご飯、歯磨き、就寝とこなした。
女の子は割と私の問いかけににこにこと答えてくれ、マイペースにお絵描きや疲れたのかベッドに入っている子もいるけど、ドイツ語が少しわかる年長の女の子や、グルジアの男の子たちに一人混ざったウズベキスタンの男の子が少し泣く場面があった。家族に会いたかったり、これからのことを不安に思ったり、色んな感情が混ざって泣くのだろう。晩ご飯時、女の子たちからしきりにお茶を入れたコップを持って「スゥー、スゥー」と訴えられた。私が理解ができないのを見て、一人が洗面台まで私を連れて行き、蛇口を差して「スゥー」だと言った。水が飲みたいらしい。それもわかる気もしないが、とりあえずお茶を飲むようにうながし、子供たちも嫌がりながら頑張って飲んだが、飲むことが大事なので、後から水をあげた。

晩ご飯後、子供たちはすぐに就寝してしまったので、かなり時間があった。
片付けや掃除も既にいる子供たちが暮らしている部屋とは比べ物にならないほど楽。到着して隔離されている間、子供たちは大人しくてお利口だけど、それも徐々にこわれていく。
時間を持て余しているので、今回ドイツに来た子供のリストをずっと見ていた。それぞれの症状や診断を後で調べるためメモする。基本的にドイツや日本では見たことのないような身体の状態の子供がここに来るので、かなり単語がわからない。
必死に書き取っていると、あることにふと気付く。空港から直接病院に行った子が全員アフガニスタンから来た子供なのだ。それだけひどい惨状なのだろう。また結構既に一度来ている子も多かった。

明日はいよいよ治療を終えた子供たちの帰国です。

2011年2月17日木曜日

本番

夜8時頃、とりあえず今いる子供たちをベッドに送り、あとは新しい子供たちの到着を待っていたとき、
窓から外を眺めていると、一台の救急車が敷地に入って来たのが見えた。
新しい子供たちは空港からオーバーハウゼンの市営バスに乗ってくるはずなので、なんだろうと思っていたら、私が待っていた子供だった。その子はStuttgartまで日帰りで外来の診察に行っていた。そうした場合、普通はボランティアの人が自分の車を走らせてくれるのだが、この子の場合、救急車の方が適していると判断されたようで、救急隊員の人に救急車の備え付けの担架に乗せられた状態で帰ってきた。
その待遇と長時間の旅を無事にやり遂げたその子を、なんだか頼もしく思ってしまった。

その子もベッドに入れ、他の子のおむつチェックなどをしていると、予定より2時間遅れて一行が到着。
検査等が終わるまでは隔離されるため、子供のほとんどが収容される棟と、その一部が仮設のベッドが置かれた普段小さい子供たちが遊んでいる部屋に分けられる。私がいた後者は子供の人数も少なく、働き手も充分いたため、順調に作業が終了。
昨日"野戦病院"と書いたが、平和村ではリハビリテーション以外の医療行為は行わないので、基本的に身の回りの整理と病院に行く準備をするのがこの初日の仕事。
あとからほとんどの子供がいる別の棟に行ってみると、ほとんどの作業が終わっているものの、ものすごく慌ただしかった感が残る雰囲気が。残り作業として、足を支える固定器具等を洗っていると、その汚れ具合や消耗度合いからこことは違う現地の生活を垣間みる。上着のポケットなどをチェックしていると、内側のポケットにすっぽり収まる本のようなものを発見。よく見るとものすごく表紙も消耗して年季の入った、グルジア語/ドイツ語のよく使う表現集みたいだった。職員に確認してからそれを持ち主の枕元に置く。
離陸と着陸を繰り返したフライトの疲れは著しいようで、どの子もみんなよく眠っている。
0時30頃、職員に私たちインターン生は帰っていいとされたが、前回の半年前のアフガン方面の援助飛行は到着が遅れに遅れ、これくらいの時間に子供たちが平和村に着いたそうだ。
私もひさしぶりにコンタクトを付けたままばっとりと就寝。
今日はどうなることだろう。

2011年2月16日水曜日

野戦病院当日

本当は"野戦病院前夜"というタイトルにしたかったのですが、当日になってしまいました。
本日夜、アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アルメニア、グルジアの子供たちを乗せたチャーター機が
デュッセルドルフに到着します。
デュッセルドルフ空港から約3分の1の子供は、ドイツ全土の病院へ直接搬送され、残りの子供たちは平和村にやってきます。
数日後、治療を終え、母国に帰る子供たちをチャーター機に乗せるため、村は一時的に超飽和状態に。
2月に入り、この62回目となるアフガニスタン方面の援助飛行に向けて、平和村はとても慌ただしい雰囲気にありました。
子供は帰れることを予感してかそわそわし、大人はその準備に奔走され、治療を終えて帰ることができる子供が病院から
続々と村に帰ってくるという状況に加え、熱を出す子供が増えるという具合。
既に長引いている咳と痰だけで充分で、意地でも移りたくないので、いつもより余計にうがいをしています。
果たして今日はどうなるのか。
ちょうど、この新しい子供たちが到着する時間にシフトに入ってますが、おそらく私は前からいる子供たち相手に、
今日も奔走されるでしょう。
とりあえず、早く咳が治ってほしい。

2011年2月14日月曜日

飛行機を使わずに移動をすること



先月、友達が来てくれた。あらかじめ言っておいたのに、彼は一つ先の駅で降りていた。
夜だから電車・バスの本数がさらに少ないけど、結局予定していたバスに乗り合わせられたので、そんなところもご愛嬌。
先々月来てくれた友達に続き、ともに京都を満喫した2人が連続で来てくれたことに、私はとても嬉しかったのでした。

そんな彼。わたしのいるところが単に目的地なのではなく、実はスウェーデンからロンドンに行く途中。
5日間乗車できるInterRail Passを利用して、彼の住むスコーネからベルリン、ルール工業地帯の私、ドイツ南西部の友達のところから、ブリュッセル経由でロンドンまでを鉄道で行く。
ひとつひとつの移動は最大6時間ほどだけど、これを1週間の旅程に入れるのは移動過多。
私や友達という寄り道先もあるけど、彼がこの方法を選んだのは、何より"飛行機を使いたくないから"。
環境負荷の高い飛行機より、エコロジーな移動手段を利用したい彼の選択です。

ちなみにEco出張を謡っているJR東海によれば、新幹線の座席当たりのCO2排出量は、航空機の10分の1程度。他の鉄道でも、航空機よりはもちろん低い。彼が利用したInterRail Passは、25歳以下のユース料金で169€。ヨーロッパに居住する人が、
居住する国以外で使えるもので、ヨーロッパに居住していない人の場合はEurail Passがそれに当たります。正規料金で個々のチケットを買うよりも破格に安いけど、LCCが横行する空事情では、その直線距離をさらに安く買うことも可能です。

一昔前、私はLCCの味を占め、好んで利用していたし、仕事では東海道を往復し過ぎたほど新幹線に乗っていましたが、
今ではそれに反対します。できる限り、必要最低限に移動は留め、必要ならば極力飛行機を選択するべきではない。
それ自体が環境に悪いことはもちろん、それに伴う衣食住の環境負荷も同時に発生し、何より人間の精神と社会に良くない。極端なことをすると色んな局面が見えてきます。

彼はロンドンで3ヶ月インターンシップをするけど、その間にスウェーデンにいる彼女は一度は会いにくるの?と聞くと、
"飛行機を使いたくないから来ない"と。帰りは同じく鉄道か、船で帰るつもりだそうです。
"時間"があれば、鉄道を使い、または"時間"がなければ、動かない生活をする人が増えてほしいと思います。

写真のお土産にもらった紅茶。とっても香りが良くて美味しい。
ティーバッグに入っている紅茶やハーブティーを好んでいたけど、自分で分量を決めて、葉だけを捨てる気持ちよさに、
ようやく気が付いた。

2011年2月13日日曜日

これだから止められない


先月、友達が私のところに来てくれた時のこと。
夜、彼を駅まで迎えに行くために、最寄りのバス停からバスに乗った。
私は既に上機嫌で、バスの運転手のおじさんに"Guten Abend"と挨拶をする。
すると、"日本人?それとも中国人?"との問いかけがきた。正直に"日本人だよ"と答える。
乗客は私しかなく、そこから始まる夜の愉快なバスの旅。
たかだか20分くらいの道のりだけど、それだけでも色んな話ができる。
私は化粧を少ししかしないので、アジアの中では化粧が濃いめな日本人よりは、韓国人によく見られるということ。
運転手のおじさんの息子さんはゲームが好きで、日本に一度は行ってみたいと思っているとこと。
家族は自分以外アカデミックだけど、自分が楽しめることをすることが大事だと思っていること。
ドイツでは日本人のサッカー選手が活躍しているし、韓国もいいけど、中国は好かないと。
じゃあ私がもし"中国人だよ"と答えたら、どうするつもりだったのと聞くと、
中国人なのか?とバツの悪い顔で動揺されたのがおもしろかった。
おしゃべりは続く。
閉ざされた平和村について。ボランティアで勤務している日本人が他にもたくさんいることや、
約200人のアフガン方面やアンゴラからの子供が生活していることを私は説明する。
おじさんは約10年ほど前に、息子さんや娘さんの幼少期の洋服を、道端に設置されたボックスから寄付してくれたそうだ。
おじさんはいつもこんな風に乗客と話をするらしい。
私は午前中バスに乗ると、ほぼ同じ運転手さんの顔を見るけど、特に話をしたことはない。
ただ私はこんな風に、他人と他人なのに、家族のことまで口を割って話せる出会いが、病み付きになるほど好き。