2011年7月24日日曜日

26年振りの両親の訪欧


先日7月15日から19日まで、両親が平和村に2泊、パリに2泊と欧州に来ました。
これは新婚旅行以来初めての、26年振りのことで、
フクシマ以前に奇跡的に決め、実行することができた旅行。
偶然、私の休暇の最後の5日間とも重なり、私の当初の計画が崩れたため、
全行程を共に過ごすことができました。

これは1日目、Düsseldorfの一番古い教会にて。



4日目。パリでパサージュを巡り、世界の街角に立った充実感に溢れる父。
特に憧れのショパンホテルの前ではもう。


同じく4日目。オペラ界隈のモノプリで、キャスター付きのお買い物かごに喜ぶ母。(私が持たせました)
購入したての土踏まずが歩く度に気持ちいい靴を履いて。


最後の夜は、父の姉、甥と甥のフィアンセと姪と7名で老舗大衆食堂へ。
私がバカのひとつ覚えで行きたがるムール貝の食べれるチェーン店"レオン"に行かなくてよかった。
本当は行ったんだけど、空いている席が全く落ち着けない位置で、こちらに連れて来てもらえて本当によかった。


私がでかいですが、お母さん、うまく交わしてくれました。
23時のキラキラタイム終了後のエッフェル塔をトロカデロから。
眼鏡家族です。

両親は本当に喜んでくれてよかったのだけど、私は反省する点が在り過ぎて、
思い出せば出す程、後悔の念にかられます。
これについては次回洗い出し、今回の旅行の私サイドを整理したいと思います。


2011年7月15日金曜日

語学学校終了。


本日にて、2週間の語学学校が終了。と言っても、コース自体は明日まであるので、終了したのは私だけなのだが。コース開始直前、授業料を振り込むことにも、毎日通うために必要な定期を買うことにも、ぎりぎりまで躊躇した。別の選択をすれば、これだけのお金を掛けずとも、もっと幸せで有意義な休暇が過ごせることを知っていたからだ。結局、私はそれができなかった。

その結果、1週目はその天秤から抜け出せず、不満とストレスたらたらだった。でも2週目、週末も挟んで、ようやく諦めにも入ったのか、先生がようやく課題のレベルを掴んだのか、2週目の内容が1週目からあればよかったのにと、終わった今思います。
ちなみに私が行った語学学校は、以前はDüsseldorfの大学の敷地内にあり、現在はなぜか追い出されつつも、大学との関係はDüsseldorfの他の語学学校よりは一番強いであろう学校です。ちなみに夏期だけある2週間のこのコースは350€、4週間なら600€。2週間のコースが単純に割高なのは、色々な諸経費のためだと思うけど、どのコースでも1週目は先生、生徒ともに手探りの状態だから、その後があと1週間の2週間コースの場合、逆に割安にしてほしいと思った。さらにちなみに言えば、この学校、コース最終日のテスト(任意)に別途料金を取ったり、テキストを買わせたりする。テストに関しては申し込む際に御触書があったけど、テキストに関してはそんな記述はなく、空気に物を言わせて買わせている感じがした。かつ私たちのクラスの参加者6名は、間違ったテキストを買わされていたため、この語学学校と提携している書店まで行き交換しなければならなかった。それもクラス分けテストの結果の評価方法が、2週間コースは他と違ったいたため、生じた問題だと思われる。まあこんなこと、日常茶飯事に起こるのが、“思いやり”が仕事上に発生しないドイツなのだが。

私たちのクラスは皆学ぶ意欲のとてもある、いいクラスだった。というのも、大学の休みなどを利用してくる学生の場合、それを名目として来ていることもあるからだ。さすがにクラスのレベルにも因るけれど。あと語学学校の質にももちろん因る。それに伴った生徒が付いてくるからだ。これに関してはこの学校は申し分なかったと前述の通りもちろん言える。
クラスの参加者の6人中2人がなんと医者だった。サンクトペテルブルク出身のロシア人の産婦人科医と、ルーマニアの眼科医。それにモスクワの現役のロシア人学生が3人と私。ちなみに3人の先生がこのクラスを受け持ってくれたが、生徒も含めて皆女性だった。2週間というコースを持つ語学学校はあまりないと思うが、働いている人にとっては2週間なら休みを取れる可能性がある故の、社会人メンバーだったのだろう。
でもその社会人の2人が医者だったのが興味深い。2人からと先生からの話によれば、ドイツ人的には、ドイツでは医者であっても以前程の収入が得られないため、より高収入を稼ぎに例えばアメリカなどに流出しているらしい。そのため、医者不足が発生し、その求人を見て、彼女たちのようにドイツで医師として働きたいと思う人がいるようだ。そう最初から名言していたルーマニア人のお医者さんは、ルーマニアではある程度以上の治療が出来ず、自分の医療技術も向上しないため、と続けていたが、サンクトペテルブルグのお医者さんは、休暇を楽しみに来たと言っていた。が、そこは産婦人科医ならではの悩みがあったようで、本当はドイツで医師をしたい気持ちはあるが、ロシアでは産婦人科医が行わない分野(私の理解が正しければ美容形成の分野)をドイツではしなければならないらしく、彼女はそれはしたくないということが、迷っている一番の理由のようだった。
平和村の話をすると、特にルーマニアのお医者さんは、ルーマニアからも子供は来たことがある?と興味を持ってくれ、知り合いの医師を通じて、生後2ヶ月で目の癌の子供がドイツで手術を受けたことを話してくれた。出来たら明後日行われる、年2回平和村が一般公開されるお祭りにと誘ったが、2人とも残念ながら都合がつかなかった。私はロシア人とルーマニア人と知り合いになるのが初めてだったし、他のメンバーも何より皆素敵な女性たちだったので、お知り合いになれたことはとてもよかった。誰かとお知り合いになることも大事だけど、自分のための時間だったのに、それが達成できなかったので、これは後々また自分に返ってくるでしょう。とりあえず、明日は両親が来るので、それを楽しみにしたいと思います。


写真はDüssel川。Düsseldorfの起こりとなった年が、橋にあしらわれたモニュメントの中に隠れています。
さぁ何年でしょう。

2011年7月10日日曜日

平和村がルール工業地帯に位置する利点


(画像はWikipediaから拝借しました)

このドイツ地図の西部、高速自動車国道:アウトバーンの路線番号が振られた青いマークが密集している地域の真ん中に、平和村はあります。密集している辺り全域がルール工業地帯であるため、おびただしい数のアウトバーンが建設されました。ちなみに北部中央のマークが集中している所がHamburg、北東部がBerlin、ルール工業地帯より少し南西にずれた所がFrankfurt、その下にMannheim、南東部がMünchenです。
年に4回、アンゴラから、アフガニスタン方面から到着するチャーター機がDüsseldorf空港に到着した後、毎回100名弱の子供の半数が、ドイツ赤十字社の救急車によって、ドイツ全土に搬送されます。自動車から排出されるCO2を考えると、それが鉄道だったらどんなにいいだろうと思うのですが、どんな病気を持っているかわからない子供を公共交通手段に乗せるわけにもいかず、重病をかかえた子供にかかる負担や、付き添う人のことを考えると、それには車の方が適していると言わざるを得なくなります。

ここの地方に住む人は、自家用車に乗ることが当たり前で、鉄道より車移動を好む人がとても多い。乗り換えが嫌とかそんな理由で、がんがんCO2を出す人たちが、ここには住んでいるのです。人口5、60万規模の街がいくつもある、人口密集地帯なので、移動手段の選択肢が多くあっていいのかもしれないけど、"アウトバーン天国"とも言われるほど、ここに住む人たちの車との親密関係はぞっとしてしまうほど深い。都市間の移動も頻繁に行われる、そんな土地柄です。

平和村に通勤する正規職員も、ほぼ皆、車通勤。場所柄、それは仕方がないのかもしれない。平和村では登録ボランティアの方が、子供を病院まで届ける運転手をしてくださる場合がよくあるが、例えばかなりここから遠い場所、HamburgとかMünchenだと、委託会社からの運転手が担当する。隣近所の街だと、登録ボランティアの方が送り届けてくださったりする。以前子供が再入院のためMaizの病院に行く予定があり、その子の出発の準備をしていたら、迎えに来たのは登録ボランティアの品のいいおばさんだった。この人が南に250kmも車を飛ばすのかと思うと驚いた。私が車を運転しないからそう思うだけかもしれないが。私はkm的感覚がないので調べてみたら、京都から浜松とちょっとその先くらいまでの距離。京都で育ったからそう思うだけかもしれないが、日本だったら主婦が子供を連れて、そんな距離を車で移動するのは想像できない。でもそんなアウトバーン網に、平和村の子供たちは支えられているのです。

でも私は働く車ならまだしも、子供が車に対して憧れを持つきっかけが沢山あることを、全く良くは思いません。子供たちに医療的援助しかしない(それ以外をする余裕がない、かつ余裕をつくらない)平和村では、それに対する教育なんてされるはずもなく、その点を私は残念に思います。"せっかくドイツに来ているのに"と。
ちなみにかつて私がいたFreiburgは、地図の一番左下から2番目の、大きめの青いマークがあるところです。通っているのは一本のみ。このアウトバーンの路線図だけ見ても、暮らしが違うことは容易に想像できます。私にとっては、いるだけでストレスになるか、幸せになるかくらいに違います。Oberhausen以外に住んでいる人からも、この街についていい意見を聞いたことがありませんが、平和村が設立されたことと、市や市営バスが積極的に協力してくれていることは、良いことに違いないと思います。

2011年7月9日土曜日

ただいま休暇中


6月27日から7月19日まで休暇を取っています。気が付けばもう残り10日。
やりたいことが沢山あるのに、もうほんとに私が今いる環境というのは、そうしたことをさくさく片付けることに全く向かず、元の計画も倒れてしまって、一人焦り、苛々となることが多いです。書きたいこともたくさんあるのに(頭を整理する必要があるのに)、それすら追いついていない!
なぜこの期間に休暇をこんなに長く取ったかと言うと、ある語学のコースをDüsseldorfで受けたかったので。でもそのために必要な勉強を怠り、結局参加できず、7月4日より2週間だけ、普通のドイツ語のコースを取ることにしました。が、変なこだわりのある私的ドイツ語の発展を遂げいるので、もはや一般的に設けられる語学のコースというのに私は適せず、学ぶことがないわければないけど、なんだか物足りない感に、自分は一体何をしているのだろうという嫌気に襲われます。まあすべて自分が悪い。
OberhausenのDüsseldorfの往復は、帰り道が本当に苦痛。平和村は4年前に最初に来た時からわかっていたけど、本当に私からしたらもう住むにはあり得ない所に位置しています。移動に時間を取られるのも嫌だけど、去年11月に年間の休暇(1年働く人は42日間)の予定を出せと言われた時点で、考えて決めてしまったので、考えを変えることも難しかったけど、あまりいい計画ではなかったかなと思います。勉強するにしても、どこか場所を変えたほうが確実にいい。普通に生活をしている場にいると、皆に、今日は早番なの遅番なのとか聞かれ、仕事をしている場なので、全然休まらない。
それはそこまで推測していなかったけど、それでも自分が住みたい街とは真逆の、住んでいるだけでストレスが溜まるような街にいるのは、Düsseldorfまで通うことで、ここに住んでいる人たちのように生活をして、その人たちの感覚になってみたいと思ったから。またDüsseldorfという街がどんな街なのか、そこに集まってくる人というのは、どんな人なのかということにも興味があった。だからそうした決断なのだが、休暇という貴重な時間を利用してアクションをするには、いささかそれに見合わない感がある。でもこういう機会が無い限りは、そんなこともできないけども。

不満を溜めている今日この頃だけど、なんとか前に進んで行かなければいけない。
15日に両親が来るので、Oberhausenという街は観光するのに全く見合わないため、NRW州の街の中でマシなDüsseldorfを見せようと、語学学校主催の旧市街地案内に先日参加した。
街という概念自体が基本的に好きなので、待ち歩きのプロの説明や街の見せ方は興味深い。4年前までドイツ語の先生で、現在は街案内をしてDüsseldorfのシティガイド本も出している女性が担当してくれた。やはり一人でふらふらしていると行くとこに偏りが出るので、街の起こりからの説明も含めて、自分が行かないような所に連れて行ってくれるのは有り難い。1988に作成されたとても細工のある凝ったモニュメントもおもしろかったが、3つの異なる特色のある教会を見せてくれたのがよかった。
写真はそのうちのひとつ、Düsseldorfで一番美しい教会"聖アンドレアス教会"。この教会、南ドイツバロックスタイルなので、先に訪れたDüsseldorfで一番古いカトリックの教会との違いがよくわかり、何より"南"なのでとても癒された。かつて行ったノイシュバンシュタイン城からも近い、ヴィース教会の街中的規模の色なし版という感じ。一番綺麗だという教会が南のスタイルというのは、やはり南と北では建築物の作りが違い、南の装飾がしっかりとなされたそれの良さを、北の人が認めているということ。だと思っています。
南といえばバイエルンの色濃い雰囲気が思い浮かび、私の好きな南西とはまた違うと思うけど、南の暖かい装飾美に慣れた人は、北の無味な冷たさが辛くなると言われることに、私は全く当てはまる。北でも好きな街はあるけれど、NRW州、このルール工業地帯に私が向かないのは、また別の理由で、平和村がここにあることの利点と繋がる。
これに関してはまた今度。

2011年7月3日日曜日

とある日の翌日の続き


帰ってくると、この日のグッバイパーティーの主役や皆がひらすらピザと格闘していた。
私もトマトソースをレシピに添って作り、最終的には2箇所に分かれているPraktikantの宿舎のオーブンをフル活用して、手のひらサイズのピザをひたすら焼いた。その間私がたまに作る、りんごの焼き菓子的なものも作ったりして、結局20時開始の予定が、食べ物がすべて出来上がったのが21時でした。
パーティーは平和村敷地内の食堂のある建物の上部。この部屋は会議やセミナー、パーティーなどに使われます。手分けしてセッティングしてくれていた子の仕事は、おおさすがと言う感じ、ものすごく時間がなかったのに、元レストラン勤務なだけあって綺麗に完成していました。20時と聞いたゲストの皆さまが、すでに持ち寄りの食べ物をテーブルに並べ談笑していました。


明日ケルンに帰る主役は1月からの半年間、基本的には本部の平和教育部門でのPraktikumだけど、週2で子供たちの日常の世話部でも働いていたので顔が広い。元Praktikantも集いました。同じ宿舎に暮らすメンバーで、その子がまさに好きそうなカゴを贈りました。喜んでもらえてよかった。ピザも彼女が仕入れたレシピや、彼女と仲の良い深夜帯のスタッフの友人(学生時代6軒のピザ屋でバイトをしたという)のレシピなどでとても美味しかった。でも製作部隊は割と疲れがでたため、皆だいたい2枚食べて満足していました。

翌日はお片づけ。パジャマパーティーからパーティー片付けの繰り返しも、これでようやく一区切り。この日帰る彼女もパッキングをこの日から始めたけど、夕方には素敵なお母さまが借りたレンタカーで去っていきました。慌ただしいけど、盛りだくさんの3連休でした。