2011年8月27日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(6)


相変わらず今日も寒く、4月5月を除いて、ヒートテックを愛用する日々が援助飛行と共に続いています。
今朝、8時半に10人の子供を乗せたワゴンがフランクフルトまで向かい、その子たちを乗せた機体が後30分ほどでタジキスタンに向けて出発するところです。9月2日にアフガニスタンに帰国する少数の子供たちを除いて、すべての国の子供たちが帰国していきました。

タジキスタンへは、小さい子供の部からはいないけど、色々と問題を起こした少年が、3月くらいから罰として小さい子供の部で生活していたので、私的にはその子を中心に見送りました。小さい子供の部ではほとんどないけれど、大きい男の子や女の子の部では、何か良くないことをした子供に罰が与えられることがあります。例えば食堂で皆とは違う所に食べる罰とか、一番大きい子供が何か悪さをした場合は、通常その子供の部屋がある一番上の3階から下り、1階で寝る罰とか。その中で一番の重い罪が、小さい子供の部に生活の場を移し、全面的に職員を手伝う罰です。私が知っているだけでもこの少年を入れて3人が、この罰になり共にたくさんの時間を過ごしてきました。

罰を受ける理由は色々あるけれど、例えば何か物を壊すとか、子供同士の喧嘩の末、相手の子を負傷させるとか、物を盗むとか。故意的に救急車を呼ぶ非常ベルを押すなど、賃金的な代償が大きい場合は、帰国時に子供が持ち帰れる鞄(入院時に病院職員から貰ったものや、服が入っている)や、母国での生活に戻ることを目的として送られるお金(基本40€)が貰えなくなります。
まもなくドイツを発つこの少年の場合、一度は鞄もお金も失ったけど、その素晴らしい手伝いっぷりで、再びそれをほぼ取り戻すことができました。むしろ私はちょっと報酬こそあげたいくらいのいい働きぶりだった。たまに口が過ぎることもあるけど、頭もよく回り、その年にしては本当によく動ける少年だった。この子の先々代も、同じようなたちだったけど、悪い方向に知恵が回る子は良い方向にも同様で、要するに非常に器用で機転も利く。退屈な生活の中でそこから逃れようと頭が働くうちに、この子も小さい子供の部に来てしまったのですが、最初何日かを除いて、まんざらでもなく、ある意味、特別なポストを楽しんでいるようでした。本当に、今日以降、戻ってきてほしいと思うことが度々あるでしょう。

昨日の夜は今回最後の新しい子供たちが到着しました。
アフガニスタンから2グループ目の弱40名がフランクフルトに到着し、うち20名が村に20時に到着しました。それ以外の子供たちは空港から病院に直接搬送されました。
私は昨日遅番で、小さい子供たちは遅くても20時にはほぼ寝静まるので、応援で新しい子供たちの受け入れに行ってきました。まず最初に子供たちをシャワーし、その際、目で確認できる症状を書き出し、服を着せます。バスから到着した子供たちは約2、3週間過ごすことになる隔離棟に案内され、それぞれの部屋に待機させられます。私はその部屋からシャワールームに子供を案内し、シャワーが終わった子供にパジャマ(夜なので)を着せ、また部屋に戻す係。通常この2、3倍の人数が来ますが、今回の援助飛行は定期便での決行のため、一度の到着人数が分散し、受け入れ側としてはいつもの超カオスな状態を回避することができました。とても順調に全員の子供が終了。リハビリのチームも到着し、子供たちが付けている包帯等も清潔なものに替えられました。

この時だけ、子供たちが来た国の状態を目で見ることができます。
援助飛行チームによれば、子供たちは一番いい服を来て、親や親戚から送り出されると聞きますが、シャワー終了後、子供たちの着て来た服を整理していると、その衛生状態がよくないことを、直に知ることができます。この服はどれだけの間、洗濯されていないのか。また同様に、子供たち自身も、例えば足の裏を白いタオルで拭けば黒くなるほど、身体を私たちのように日常的に清潔に保つことが困難であることがわかります。子供たちを覆っているのは、砂やほこり。以前平和村に来ていた子供たちは、前回渡された松葉杖や、脚の長さの差をうめるための底上げされた靴などを持ってきますが、その使用、消耗状態からも伺い知ることができます。それと同時に2回目以上となる子供たちとの再会は、お互いに笑顔をもたらします。

彼らが可能な限り早く帰国し、その帰国する土地が平和に暮らせる土地になることを、願わずにはいられない瞬間です。


2011年8月20日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(5)


現在Einsatzまっただ中。
アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アルメニア、グルジアへの援助飛行がどんどん遂行されていきます。
8月14日にアルメニアへ3人の子供が帰国したのを皮切りに、昨日は一番大勢のアフガニスタンの子供が約50人帰国しました。既にアルメニア、グルジア、ウズベキスタンから新しい子供たちが到着し、今日はタジキスタンからの便を待っているところです。
本来予定なら、17日にこれら全ての国の新しい子供たちがチャーター機で到着し、20日に治療を終えた子供が帰国するはずだった。それが一ヶ国ずつなので、一度期のカオスは避けられるけど、なんとも慌ただしい。

例えば一昨日、昨日帰国した子供たちの名前が、昼食の後食堂で発表されたけど、その後は恒例の写真撮影。今まで私が見て来た過去3回は、皆家に帰れる喜びに溢れてその流れで、いつも写真を撮る場所まで移動するけど、今回は喜びの後に涙があり、そしてまた笑顔が戻った。あんなにしんみりとした移動を見たことがなかったけど、それは四六時中一緒に過ごした大事な友達の中に帰れない子がいるから。また、いいことばかりではもちろんないけれど、毎日を一生懸命過ごして来た平和村の生活や職員、ボランティアとの別れが来るから。子供たちの涙はこちらの涙もがんがん誘ってきます。その場ではこらえるけど。
今までこの帰国前日、一番子供たちがいい顔をする日を見てきて、子供たちは皆それぞれ仲が良いけど、今回はなんだかものすごく絆が見えた。

帰国することを一応わかっている私たちの小さい子供の部からは、昨日10人が帰国。そのうちの4人、中でもちょっと小さい子供を前日、念入りにシャワーをし、爪と耳をきれいにしたけど、もう1人すべきだったことに、当日、バスに乗り込む姿を見ている時に気付いた。私はその子をアフガニスタン人ではなく、ウズベキスタン人だとずっと思っていた。かなり失敗。ちゃんと情報確認をしないといけない。

一昨日の夜、そういえばものすごい嵐だった。
窓を閉めても、何ヶ所かはその隙間から水が入ってくる、少々浸水パニックでした。
それでも子供たちが帰る時は、気持ちのいい晴天で送ってくれる。アルメニアの子供たちの時も、その数時間前までは降っていた雨が止み、青い空が見えました。

あと少し、油断はできない。というのも、アフガニスタンの子供たちが帰る2日前、帰国予定のリストに名前がある子供が、遊んでいて転倒し、足を骨折。帰国ができなくなってしましました。ちょうど同じ時、帰国予定で一番小さい子供も、別の子供に転され、おでこを地面に強打し、数針縫うことになってしまいました。この子は帰れたけど、こんなことが起きてしまっては、また半年後の援助飛行を待たなければならないかもしれない。私はこの2人と職員の運転する車で救急病院へ行ったけど、帰れなくなった子とは当日、あと少しで帰れるねと話もしていたし、痛々しくてならない。折れていると診断が下った後は、それを受け止めてか少し落ち着いていたけど・・。帰れた小さい子も、傷物にしてしまったので、それが何より悔やまれる。回りの目の多さは非常に大切です。

そんなところで、今日も遅番に行って参ります。
援助飛行について詳しくはこちら



2011年8月14日日曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(4)



送迎会の際、Praktikant全員で一曲歌ったと書いたが、これはPraktikumを始めた頃には考えられないことであった。
当時、2つあるPraktikantが住む宿舎は、完全にドイツ人とそれ以外(ほぼ日本人)と分かれていて、ドイツ人の方の荒れようも酷かったけど(単に若い)、私はその状況から感じる"日本人隔離された感"が本当に嫌だった。その後、国籍を混ぜる案が上から提案され、当時の住人にアンケートを取った結果、「混ぜる」ことになり、半年の短期滞在者と1年など長期滞在者で振り分けられることになった。・・・
今ではほんとうまく混ざっており、非常に色んなことが改善され、よくなったと思う。

こんな日本人だらけの所に来ておいてなんだが、ドイツにいて日本人で集うのも何なので、休みの日に出かけるなら、自然に一人でふらふらすることが常だった(日本にいてもほぼ同じ過ごし方)。それは私の基本形だが、以前は日本人隔離から逃れたかったことが大きかったように思う。冬、極寒だったときは出かけること自体今より少なかったけど、暖かくなってきた3月、別の宿舎に引っ越したことが大きな転機だった。これによってドイツ人のPraktikantと過ごす時間が増え、ナチュラルにドイツにいる感覚に近づいて行けたのだ。それまでのように日本人隔離された感から解き放たれ、それを感じることはなくなったが、平和村自体が大きな隔離であるなと気付いた。

それはさておき、あの状態がずっと続いていたら、例えば昨日のように日本人4人でOLGASROCKに行ったりしなかったかもしれない。そうした変化をものすごく気付く今日この頃。
今日、今回の援助飛行の第一弾、3人の子供がアルメニアに帰国しました。9月2日まで続く長丁場、色んな場面を見れたらいいなと思います。

2011年8月12日金曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(3)


昨日は月末の援助飛行で帰国する、アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、グルジア、アルメニアの子供たちの送迎会があった。
なんだか、あっと言う間だった。
子供たちがダンスを披露したり、職員がBabysitter boggieを仮装して踊ったり、Praktikantも全員で一曲歌ったり・・・ いつものソーセージとパンに変わって、ピザが出され、最後は皆踊りまくって終了という流れ。
もちろん帰る国の子供たちが主役なので、アンゴラの子供たちからの出し物は控えめになるが、今回よく気付かされたのが、アンゴラの子のダンスに他の国の子供たちがものすごく感化されているということ。特に男子。でも女子はかぶれることなく、自分たちの持てるものを出していた。通じて言えるのは、特に立つことや歩くことが困難でドイツに来て、治療を続けて来た子供たちが、松葉杖なしで思いっきり踊っている姿は、いつもほんとに感動もの。

過去3回の送迎会は、毎回早番だったので、縛られることなく自由に参加できたが、今回は遅番に当たったので、業務中のパーティー。村で一番最年少の子が調子が悪く、昼ご飯を何度かに分けて吐いていたので、すごく心配でした。ぐったりしてしんどそうなので、あんな爆音のかかったところよりは、外に出したいなと思っていたけど、そうしないのがこちらの感覚。大事には至っていないので、大丈夫だと思いますが・・・

食事の後、もう皆好き放題に踊りだし、カオスな状態で、極小サイズの子供が危険に巻き込まれそうな時もあり、ひやひやしながら私も楽しんでいましたが。こんな時に気になるのはいつもアフガニスタンの大きな女の子の一角、気付いた時には皆涙を流していました。長くいる子供たちは、このあと別れが来ることを知っているので、一見楽しいパーティーですが、それが終わった後は悲しそうにしている子もいました。
インターネットや郵送手段を気軽に利用できる環境にあれば、別れてもまたすぐに繋がれる可能性がありますが、ここに来る子供たちの場合、あらゆることに耐えて毎日一日中一緒に過ごしてきた友達と別れると、再び会うことが非常に困難なため、彼女たちの悲しみは想像に絶します。
特にアフガニスタン方面とアンゴラの子供たちが別れるのは、もう一生会えない可能性の方がはるかに高いので、こちらもあの仲良かった2人が一緒にいるのをもう一度見たいと思ったりしますが、せめて、遠くに友達がいることを忘れないでいてほしいと思います。

帰国まであと10日ほど。無事に残りの村での日々を過ごしてもらいたいです。


Praktikumの終わりに見えてくるもの(2)


最近どうも腰がつらい。
休暇が明けて、少し働き始めた頃、何をするにも立っているのもつらくなり、ひたすら椅子を求めた。
その話をリハビリ部で作業療法のボランティアをされているAさんにすると、ちょっとほぐそうか?と素敵すぎる提案をしてくださった。6月頃、それは精神的な疲れからくる全身疲労がピークに達し、気になっていたタイ式マッサージ屋に駆け込んだが、あと一歩でまた足を向けてしまうところだった。
ソファーに横たわり、ちょっと腰を中心にほぐして位置を調整してもらう。すると数日は特につらさを感じることなく働けた。その後、再び今後はリハビリ部にある施術台で見てもらうと、結構左右の筋肉に差があることを指摘される。腰の右側に筋肉が少なく、右のお尻の筋肉も衰えているようだ。何より骨盤が前傾し、腹筋がないため、腰だけで何でもやってしまっていたため、疲労が溜まってしまっていたようだ。

私が働いているのは小さい子供の部署なので、7kgから15kgくらいの子供のおむつを変えるために、常におむつ台に上げ降ろす作業をする。私はそのおむつ台の高さは大丈夫だが、ドイツ基準の高さなので身長が150cmくらいの人にはかなりつらい。また、歩けない子はトイレに連れて行かなければならないし、そうした行動に問題がない子でも、バスタブから出したりするためには持ち上げる必要がある。
今その子は義足を付けていて一人で歩けるようになったが、四肢がない子がいる。本来なら小さい子供の部署ではなく、女の子の部署にいる年齢なのだが、何せ補助すべきタイミングが多いのでこちらに来た。私は何故か彼女に「トイレに行きたい」と指名されることが多く、バスルームにあるおむつ台にまず乗せ、服を脱がし、トイレに座られる(とその逆)をものすごくしていた時期があった。思えばその時、腰任せにするのではなく、もっと腹筋を使っていれば今こんなに疲労を抱えることはなかったと、付けが回ってきたように実感する。その後、彼女が義足を付けて歩行訓練を行うようになり、脇の下を両手で支え歩行を助けていたときは、かなり両腕の筋肉が鍛えられた。

最初このPraktikumを始めた時は、前職と違ってデスクワーク(たまに病院内を縦横無尽に駆け回る)ではないので、身体を動かす感がとても気持ちよく、スペアの肩が3つ欲しいとも思わなくなったが、実は重労働なので、後々疲れがでないように意識して動かないと、結構な代償にも成り得るなと今になってわかりました。
とりあえずまず腹筋を鍛えないと・・・


2011年8月8日月曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(1)


今週は金曜日にならないと、最高気温が20度台にならないらしい。
窓から見える天気は暗い。まるで10月後半のようなどんより雲。

今回行われる第63回目となるアフガニスタン方面の援助飛行は、当初8月17日にアフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、グルジア、アルメニアの子供たちを乗せたチャーター機が到着し、20日に治療を終えた子供たちが帰国する予定だった。
7月25日には援助飛行チームもアフガニスタンに入り、医療援助が必要な子供たちとの渡独を毎度のごとく準備するはずだったのだが。なんと予定していたチャーター機が、運行に断りを入れてきたとのニュースが村にも届いた。
聞く所に寄れば、アフガニスタン方面の援助飛行ではタジキスタンの航空会社の機体をチャーターすることが多いそうで、今回も予定されていたのはタジキスタンのEast Airだったが、いきなりキャンセルされた。タジキスタンから来ている子供だっているのにだ。
チームは代替のチャーター機を出してくれる航空会社を当たったが、結果見つからず、今回の援助飛行はすべて定期便での運行になった。
2008年にも定期便を使用したことがあったそうだが、その時はチャーター機の値段の高騰が原因だったそうで、定期便を使ったほうが安かったとのこと。今回は一人の子供に対し、500€を支払わなければならないらしい。寄付のみで運営している団体のため、財政は常にかつかつの状態だが、余計に苦しくなることは間違いない。
改めて作成された援助飛行の予定は、17日のグルジア、アルメニアの子供たちの渡独を皮切りに、26日のアフガニスタンの子供たちの帰国と、10日間に及ぶ長丁場になる予定です。
さて、どうなるか今回の援助飛行。


2011年8月7日日曜日

誰もわかってくれない


また書きたいことが沢山あるのに書けず、頭の中のタスクが溜まる一方な日々を送っています。
ここにいるのも最後の2ヶ月。果たしてここにいるうちにどれだけ処理できるのか。

ちょっと勝手に悲観的になりますが、
別に私は秘密主義な訳でもなんでもなく、ただ人との共有の仕方がわからない、不器用な人間だと思いますが、自分が嬉しいことを初めて人に伝えた時でも、「おめでとう」と言ってもらえない時には、さすがに凹みます。自分という人間に対して不安になるし、余計に開き直りそうでもう嫌です。自分がどれだけそれを望んできたか、伝達不十分で、かつそれは一般的に見るとあまり素直に喜べるべきことではないのかもしれないけど。私が無知なだけで。
私の絶対的な味方になってくれる人は、人間でいるのか疑いたくなる。
それだけ私はどこかおかしいのか。

確かに声の出る発声もとは特徴的だと、最近子供にマネをされるのでわかるけども(小学校の時もそんなことがあった)、私だって孤軍奮闘しているだけなのです。私という人間をちゃんと理解してもらうことが、こんなに自分が苦手で難しいと思わなかった。単純に私が言葉を沢山発する割には、その本意を伝えられてないことが原因だと思うけど。それなのに、勝手にわかってもらえていると期待し過ぎるから。なんて痛い子なのでしょう。
私の絶対的な味方はどこかにいるのか。

例えば何か物を頂くとする。近年よく集まってきたのは、何か綴ることができる物。要するにノートや書くものなど。確かにこうしてたまにブログに書くし、それを見てくれた上でそれを贈ってくれるのは嬉しいけども、私は紙には日記を書かない。むしろネット上に置くことで、それを所有することを避けている。他の使用の仕方もあると思うけど、結局まだ日の目を見れていない。私は物を所有することに関して、非常に慎重になりたいのです。小さい頃から気難しかったのか、現金をもらったりもした。どうしてだろうか。また、一時的にとても肩入れをするものが、単純に無難だろうと読まれるのか、そういったもの。

例えば何かメッセージを頂くとする。大抵よくあるのが、私はそのまま突き進んだらいい、という趣旨の文。肯定してもらっているのは有り難いけど、私は実験台かと思う。傍から私がどうなるのか、好奇の目で見られている気になる。ただそれだけ。
これが負のスパイラルかどうかは、今のこの状況から脱しないとわからないけど、そうだといいなと思う反面、そう思うことを解決しないとまた同じ目に遭う。


先日、来年平和村勤続40周年になるベトナム出身の職員の家に呼んで頂き、お昼を御馳走になった。写真はその時のもの。