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2012年1月6日金曜日

平和村Praktikum回想記② 体験記



2010年10月から2011年9月まで、私が平和村でPraktikumをして見つけた答え

私は平和村で過ごした後、自分がどう転ぶか知りたかった。
人間が生きる上で絶対必要な"医療"の方向に行くか、自分の感性を生かせる、人間の"欲望"の方向に行くか。
後者だった。
ただ欲望に寄り添うのではなく、私はその領域においてやりたいことがある。
私にとって重要性が高いのは、Kinderschutz(子供を救うこと)ではなく、Klimaschutz(気候を保全すること)
だった。だからこれからはその自分がいる領域から、これに貢献したいと思う。

平和村には日本から来るボランティアが、常時10名ほどいる。
この中には平和村がドイツにあるからドイツに来る人と、ドイツに来たくて平和村に来る人がいる。
私は後者。
先述したことに、やはり一番興味があることがわかったけれど、ドイツという国を初めて意識したのは、平和村を通してだった。だからドイツと私を会わせてくれたことを感謝するために、1年無給で働くという意味もあった。そしてその後、ドイツに残るために。
平和村の活動は簡単にできるものでは全くないし、ものすごくインパクトがある。それが実現できるドイツという国に私もとても驚いた。日本人の職員がいるから日本語で情報が簡単に手に入り、少しばかりのドイツ語の学習歴さえあれば、平和村にボランティアに行くのは難しくはない。
だけれどその数は、ドイツ人のPraktikantより常に断然多い。
これは本当におかしいと思う。
日本から平和村に行く人も、それを喜んで受け入れ続ける平和村も。

日本から平和村に行く人に関しては、半分くらいは理解できる。自分もそうであったし、興味を惹き付けられる情報が、十分すぎるほどあり、長期滞在できるビザを手にすることが難しくない。
ただ戦争や地雷、事故、先天性な病気を持つ子供たちを助けたいがために、ドイツまで環境負荷をかけて渡航することは、推奨されるべきことではないと思う。そうした助けが必要な子供たちは、日本やもっと身近な場所にもいる。一時的な労働力として身を投じに来る、または来させるには、もっと近場の労働力が適していると思う。

私はKinderschutzを理由に、それを正当化してKlimaschutzに反することは間違っていると思う。
これはもちろんKinderschutzに限らず、企業戦士ぶって、また自分のエゴが故に、気候に害を与えている人全般を対象に思います。

以上、平和村体験記というより、体験を通して得た所感でした。








※Praktikum: インターンシップの意。学業や職業訓練を受けたあと、またはそれに平行して、無給や少量の賃金で、実習(労働)を行うこと。
※Praktikant: インターンシップをする人。平和村の場合、高校卒業試験を受けたあと、大学に行く前に、社会的見識を広げるために、半年から1年ほどPraktikumをしに来る若者が多いです。
ドイツ国際平和村: https://www.friedensdorf.de/

2011年12月26日月曜日

Mein lieber R


ドレスデン大学病院
ちょうど3ヶ月ぶりに、私の一番小さな友達、愛しきRに会いに行く。

午後1時、やはりお昼寝中だったけど、看護師さんに部屋に入っていいよと言われ、入ってみる。目が開いている。誰かわかる?と訊くと、わからないとの回答。でも私の名前を言うと、思い出してくれたようだった。
2時半まではベッドから出てはいけないので、彼はそこで普段していることを色々見せてくれ、ぺらぺらと話しだした。元々ぺらぺらだけど、さらに磨きがかかっているのが、切ない。

今ドイツにいる平和村の子供の中で、おそらく一番長いであろうRが来たのは約4年前。1歳くらいでドイツに来たので、もうドイツの子供。母国語はしゃべれない。今日の午後にサンタが来ると、首をながーくして待ちわびて、用意してもらったシャツとサンタの柄付きネクタイに着替える。顔を腕はむちっとしているけど、元々身体と脚は細い。脚が特に細くなっていた。痩せたね、と言うと、あんまり食欲がわかないからあまり食べれないと言った。

私はその前日の晩寝ずに支度をして、早朝からの移動中少し寝たけど、確実に寝不足。Rは私に、私が自分に対して不安があるのかと訊いてきた。最初なんでそんな問いが出るのかわからなくて、そんな目で見ていたのかと動揺したけど、おそらく寝不足のせいだよと言った。でも治療中とはいえ、痩せてしまったことで表情も変わり、ドイツの子以上に上手く、もみの木の歌を歌えるのを見るのは複雑。

私はもともとどんなに痛々しい身体をしている子供でも、それが子供に伝わるような目は絶対にしてこなかった。誰だってそんな哀れんだ目で自分を見られたくないし、あくまで普通の態度を取ってきた。でもさすがのR、自分は普通にしていたつもりでも、寝不足のせいか、ほんとうに目にでたのかわからないけど、やられました。

雪が降り出したことを喜び、窓に張り付いて、あのヘリコプター降り場に、サンタはそりに乗ってトナカイと一緒にやってくるんだよ!と期待高らかに待ちわびる。そちらに興味を惹き付けていると、看護師さんが扮したサンタ登場。まずは別の病室にいる子供に、その子供の家族から託されたプレゼントがサンタによって配られる。何箱も、渡されて行くのをRは見る。歌を歌ってとRに言われたわけじゃないのに、先陣を切って歌う。そうしてようやく自分の番、ひとつ、ふたつと箱をもらい、真剣な顔で喜び、包みをほどく。playmobilの救急車が本当にお気に入りだと、満足そうに言った。

前に来たときは夏のように天気もよくて、外で遊んだり、べったりして楽しんだため、気が付いたら看護師さんと特に治療の話もせず帰った。ひとりドイツの長いRの取り巻く環境を含めて特に心配をしているような、看護師さんと話をした。私はどうにか今度の2月の援助飛行で帰れるのではと、思っていたけど、いい返事ではなかった。治療がうまく進んでいないわけではないけど、まだまだ帰すには危険なのだ。

一体彼はどうなるのだろう。平和村に来る子供は基本的に皆ただ事ではないけど、Rの場合、その域を越え過ぎている。彼を知る、彼と関わりのある人皆が、その人の立場で彼を本当に心配して、彼にとっての最善のことを考える。彼が再び家族と会える日は来るのか。想像を絶するような気持ちで帰りを待っているだろう。何より完全にドイツ人化してしまったRが母国に溶け込むには、どれくらいの歳月がいるのだろう。その間、彼はどんな想いで日々を過ごすのだろう。考えだしたら全てが悩ましすぎる。

でもとにかく、今は治療が上手く進んで行くことを願う。
単純に、メリークリスマスと言えないクリスマスが、ドイツにもたくさんある。


2011年10月25日火曜日

平和村Praktikum回想記① うさぎによく会った



ふと思い返せば、やっぱりPraktikum中、私はよくうさぎに会った。
どういうことかと言うと、本物の野生のうさぎも見たけれど、それ以上にうさぎネタが多く舞い込んで来たのだ。

最初のうさぎは、「ミナ ペルホネン」長江青の日記経由で知った、北海道の写真家の人と一緒に住んでいた"ウーロン"の話。この"ウーロン"といううさぎは、New York Timesに載ったこともある有名なうさぎで、何故に掲載されたかというと、頭の上に何かを乗せてキープする頭芸ができたから。そしてこの写真家の方、中学生以来うさぎを飼い続けているといううさぎエキスパート。
私にすっと入ってきたのは、この方が言った「犬や猫とは違う、うさぎを飼うときの距離感が自分には合っている」という趣旨の文。これにものすごく確信を持って大共感した私。犬や猫は好きだけど、そこまでお近づきになれない感があったためか、犬猫という二択から逃れることができたからか、ベルリンで泊めてもらったお家にうさぎが2羽いたからか、本当にしっくりきた。ここからやたら、うさぎうさぎと言う日々が続く。

そして12月、予定から2ヶ月遅れて友達が会いに来てくれた。ミラクルに偶然なことに、彼女も私と同じ時期から、別の理由でうさぎ熱が高まっていた。だから「うさぎの歌」を作った。私作詞、彼女作曲。最高に楽しかったな。

翌月、母から封筒が届く。「ドイツは自己主張をしなければいけないと思うけど、たまにはうさぎの様に大きな聞き耳を持って、頑張ってね」と。うさぎの和小物付き。それを証明書にくくった。職務中はいつも首から下げ、それはちょうど子供たちの視界に入りやすい位置に来るので、やたら触られ、結局最終的に相当汚れが付き、糸がちぎれてしまい処分をした。ある子は、うさぎの盛り上がる顔面の中に、「ヨーグルトが入っている」と見ただけで言っていた。白い綿だろうから、あながち間違っていないだろうけど。

そしてこの本、"Weißt du eigentlich, wie lieb ich dich hab?: 知ってる?ぼくがどれだけ君のことを好きか"(勝手に訳)。
ちょうど1ヶ月前、日本に帰る3日前、私はドレスデンに入院している、とても好きな子供のお見舞いに行った。14時に病院に着き、帰る20時までべったり一緒にいた。歯磨きをし、パジャマに着替え、日課のアニメを見終わり、ベットに転がりながら彼は、「この本読んで」とおもむろにこの小さな本を私に差し出した。登場するのは小さなうさぎと大きなうさぎ。彼らがお互いにお互いをどれだけ好きか、どれだけ大きなもの、長いもの、遠いものに例えて言い表せるかで表現し合うのだ。
例えば、小さいうさぎが、「ぼくは君のことを、あの地平線の彼方に見える木くらいまで、好きだよ」と言えば、大きいうさぎは、「ぼくは君のことを、あの雲の上に見える月くらいまで、好きだよ」といった具合に。これを彼に読んでいるときの、心の温まりっぷりといえば、もう。今、これをまた読んであげたくて仕方がない。
※ちなみに上記は実際の本の内容ではなく、こういう感じと説明したいだけなのであしからず。

今後もうさぎネタが増えていくか、乞うご期待。


2011年9月16日金曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(8)



なんだかイベントが多く慌ただしかった今日この頃、気付けば本日で早番の勤務は終了でした。
残りは遅番6回。それで終了なんて、そんな気がしないけど、ここで区切りをつけないとしんどいような。

最後の早番、前日に続き若干寝坊をしてしまった。
知らぬ間に結構な遅刻魔になってしまったが、それも何故かあまり嫌な顔をされないからか、改善しなかった。特に7月半ばから3週間ちょいの休暇が開けた後がひどかった。それは自慢すべきことではないが、6時36分に起きても、6時45分には勤務開始できる、私の準備の早さと職場の近さ。昨日は気が付いて起きたのが40分代と過去最高に遅かったけど、行ったら私も早番だと、誰も気付いていなかったため気が抜けた。今日は申し訳ないことに起こしに来てもらってしまったが、昨日の早番と同じ正規職員Gは、笑い飛ばしてくれた。それで普通の心持ちで始業できるけど、遅刻常習者にも温かい目を向けられるのは割と謎。

お昼ご飯も済み、子供たちが外に遊びに行き、部屋の中の掃除や服の整理をしていると、8月から働き始めた新しい正規職員Mが2人の子供を連れて中に入ってきた。2人の手にはコンクリートがまみれ付いている。すぐさまそれを落とす作業に取りかかるが、一瞬素人が落とすのは無理なんじゃないかとか、そんな危機感がよぎる程、時間がかかる。それにしても何故部分的に補修したコンクリートがまだ固まっていないのに、そんな所で子供を遊ばせてもよいのか、そして気付くのが遅いんじゃないのかと、もう一人のPraktikant: Vと必死に汚れを落としながら、その有り得ない様を口々にこぼす。しかも一番小さな1歳半のEちゃんも。口に入れたりする危険性は特に考えないのか。その子の服は総取り替えで、お尻歩きのためズボンはもう無理と判断し処分をした。悪戦苦闘していると、どうにか爪の中以外は何とか取れたが、そのことを他の正規職員Nに話しても、まああるわな。という程度で、最後にしてなんだかやはり感覚が違うなと痛感したシフトでした。

援助飛行が終わった後、8日は子供40人との遠足、そしてその日から従姉妹が12日まで滞在、その間10日には平和村の一番大きなお祭り、昨日15日は年に一度の子供と職員全員での遠足と非常にイベント目白押しでした。これらイベントの日に割と早番に入っていたため、今日が久しぶりの日常の早番だと思ったらこれで最後、驚きです。でも休みの日ごとにイベントに入っていたPraktikantや正規職員もいたので、彼らは本当にみっちりフル活動していたなと思います。

そろそろ荷詰めを始めようとスーツケースを自分の部屋に移動させてきました。
さて、はかどって作業ができるのか。


写真は昨日行った遠足: BottropにあるSchloß Beckの観覧車より。

2011年9月3日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(7)



昨日、アフガニスタンに帰る子供たちの最終組が帰国し、今回の援助飛行が終了しました。
昨日の早番のシフトはえげつなく、私はずっと走り回っていたので、14時の村からの出発を、今回すべての出発に立ち会って来た中、唯一見送れませんでした。帰国した9人の子供の中には、2人、2月に帰国し検査・コントロールのため再渡独した子がいました。半年間の故郷での成長を少し垣間みれて、また会えたことが嬉しかったです。

その前日、9月1日はチャリティーウォークが行われ、子供たちと村から本部まで、往復4kmの道のりを歩きました。これと平行して、参加者がスポンサーを募り、寄付金を集めるチャリティーウォークも開催され、私も参加したかったけど、子供たちを戻ってきたときには最終受付時間が終わっていました・・・。詳しくはこちら 9月、私のPraktikumの最終月にして、催しが一番多い。今日は珍しく30度近い気温ですが、続くイベントの日もいいお天気だといいな。

8月31日の朝、半年間Praktikumを同じ小さい子の部でして、同じ宿舎だったHさんが日本に帰国しました。彼女の素晴らしきマッサージ技術と謎の語彙がちらばるトークにかなり癒されました。そんなHさんのレゴブロックを使ったDANKEが、この日の朝、早番に行くと遊び部屋に!同じ早番だった職員Cは、子供が近づこうものなら吠えて、遠ざけていましたが、遅番の時間には解体されてしまいました。子供たちもこれに刺激されて、何かまた新たなものを作ってくれるといいな。


2011年8月27日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(6)


相変わらず今日も寒く、4月5月を除いて、ヒートテックを愛用する日々が援助飛行と共に続いています。
今朝、8時半に10人の子供を乗せたワゴンがフランクフルトまで向かい、その子たちを乗せた機体が後30分ほどでタジキスタンに向けて出発するところです。9月2日にアフガニスタンに帰国する少数の子供たちを除いて、すべての国の子供たちが帰国していきました。

タジキスタンへは、小さい子供の部からはいないけど、色々と問題を起こした少年が、3月くらいから罰として小さい子供の部で生活していたので、私的にはその子を中心に見送りました。小さい子供の部ではほとんどないけれど、大きい男の子や女の子の部では、何か良くないことをした子供に罰が与えられることがあります。例えば食堂で皆とは違う所に食べる罰とか、一番大きい子供が何か悪さをした場合は、通常その子供の部屋がある一番上の3階から下り、1階で寝る罰とか。その中で一番の重い罪が、小さい子供の部に生活の場を移し、全面的に職員を手伝う罰です。私が知っているだけでもこの少年を入れて3人が、この罰になり共にたくさんの時間を過ごしてきました。

罰を受ける理由は色々あるけれど、例えば何か物を壊すとか、子供同士の喧嘩の末、相手の子を負傷させるとか、物を盗むとか。故意的に救急車を呼ぶ非常ベルを押すなど、賃金的な代償が大きい場合は、帰国時に子供が持ち帰れる鞄(入院時に病院職員から貰ったものや、服が入っている)や、母国での生活に戻ることを目的として送られるお金(基本40€)が貰えなくなります。
まもなくドイツを発つこの少年の場合、一度は鞄もお金も失ったけど、その素晴らしい手伝いっぷりで、再びそれをほぼ取り戻すことができました。むしろ私はちょっと報酬こそあげたいくらいのいい働きぶりだった。たまに口が過ぎることもあるけど、頭もよく回り、その年にしては本当によく動ける少年だった。この子の先々代も、同じようなたちだったけど、悪い方向に知恵が回る子は良い方向にも同様で、要するに非常に器用で機転も利く。退屈な生活の中でそこから逃れようと頭が働くうちに、この子も小さい子供の部に来てしまったのですが、最初何日かを除いて、まんざらでもなく、ある意味、特別なポストを楽しんでいるようでした。本当に、今日以降、戻ってきてほしいと思うことが度々あるでしょう。

昨日の夜は今回最後の新しい子供たちが到着しました。
アフガニスタンから2グループ目の弱40名がフランクフルトに到着し、うち20名が村に20時に到着しました。それ以外の子供たちは空港から病院に直接搬送されました。
私は昨日遅番で、小さい子供たちは遅くても20時にはほぼ寝静まるので、応援で新しい子供たちの受け入れに行ってきました。まず最初に子供たちをシャワーし、その際、目で確認できる症状を書き出し、服を着せます。バスから到着した子供たちは約2、3週間過ごすことになる隔離棟に案内され、それぞれの部屋に待機させられます。私はその部屋からシャワールームに子供を案内し、シャワーが終わった子供にパジャマ(夜なので)を着せ、また部屋に戻す係。通常この2、3倍の人数が来ますが、今回の援助飛行は定期便での決行のため、一度の到着人数が分散し、受け入れ側としてはいつもの超カオスな状態を回避することができました。とても順調に全員の子供が終了。リハビリのチームも到着し、子供たちが付けている包帯等も清潔なものに替えられました。

この時だけ、子供たちが来た国の状態を目で見ることができます。
援助飛行チームによれば、子供たちは一番いい服を来て、親や親戚から送り出されると聞きますが、シャワー終了後、子供たちの着て来た服を整理していると、その衛生状態がよくないことを、直に知ることができます。この服はどれだけの間、洗濯されていないのか。また同様に、子供たち自身も、例えば足の裏を白いタオルで拭けば黒くなるほど、身体を私たちのように日常的に清潔に保つことが困難であることがわかります。子供たちを覆っているのは、砂やほこり。以前平和村に来ていた子供たちは、前回渡された松葉杖や、脚の長さの差をうめるための底上げされた靴などを持ってきますが、その使用、消耗状態からも伺い知ることができます。それと同時に2回目以上となる子供たちとの再会は、お互いに笑顔をもたらします。

彼らが可能な限り早く帰国し、その帰国する土地が平和に暮らせる土地になることを、願わずにはいられない瞬間です。


2011年8月20日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(5)


現在Einsatzまっただ中。
アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アルメニア、グルジアへの援助飛行がどんどん遂行されていきます。
8月14日にアルメニアへ3人の子供が帰国したのを皮切りに、昨日は一番大勢のアフガニスタンの子供が約50人帰国しました。既にアルメニア、グルジア、ウズベキスタンから新しい子供たちが到着し、今日はタジキスタンからの便を待っているところです。
本来予定なら、17日にこれら全ての国の新しい子供たちがチャーター機で到着し、20日に治療を終えた子供が帰国するはずだった。それが一ヶ国ずつなので、一度期のカオスは避けられるけど、なんとも慌ただしい。

例えば一昨日、昨日帰国した子供たちの名前が、昼食の後食堂で発表されたけど、その後は恒例の写真撮影。今まで私が見て来た過去3回は、皆家に帰れる喜びに溢れてその流れで、いつも写真を撮る場所まで移動するけど、今回は喜びの後に涙があり、そしてまた笑顔が戻った。あんなにしんみりとした移動を見たことがなかったけど、それは四六時中一緒に過ごした大事な友達の中に帰れない子がいるから。また、いいことばかりではもちろんないけれど、毎日を一生懸命過ごして来た平和村の生活や職員、ボランティアとの別れが来るから。子供たちの涙はこちらの涙もがんがん誘ってきます。その場ではこらえるけど。
今までこの帰国前日、一番子供たちがいい顔をする日を見てきて、子供たちは皆それぞれ仲が良いけど、今回はなんだかものすごく絆が見えた。

帰国することを一応わかっている私たちの小さい子供の部からは、昨日10人が帰国。そのうちの4人、中でもちょっと小さい子供を前日、念入りにシャワーをし、爪と耳をきれいにしたけど、もう1人すべきだったことに、当日、バスに乗り込む姿を見ている時に気付いた。私はその子をアフガニスタン人ではなく、ウズベキスタン人だとずっと思っていた。かなり失敗。ちゃんと情報確認をしないといけない。

一昨日の夜、そういえばものすごい嵐だった。
窓を閉めても、何ヶ所かはその隙間から水が入ってくる、少々浸水パニックでした。
それでも子供たちが帰る時は、気持ちのいい晴天で送ってくれる。アルメニアの子供たちの時も、その数時間前までは降っていた雨が止み、青い空が見えました。

あと少し、油断はできない。というのも、アフガニスタンの子供たちが帰る2日前、帰国予定のリストに名前がある子供が、遊んでいて転倒し、足を骨折。帰国ができなくなってしましました。ちょうど同じ時、帰国予定で一番小さい子供も、別の子供に転され、おでこを地面に強打し、数針縫うことになってしまいました。この子は帰れたけど、こんなことが起きてしまっては、また半年後の援助飛行を待たなければならないかもしれない。私はこの2人と職員の運転する車で救急病院へ行ったけど、帰れなくなった子とは当日、あと少しで帰れるねと話もしていたし、痛々しくてならない。折れていると診断が下った後は、それを受け止めてか少し落ち着いていたけど・・。帰れた小さい子も、傷物にしてしまったので、それが何より悔やまれる。回りの目の多さは非常に大切です。

そんなところで、今日も遅番に行って参ります。
援助飛行について詳しくはこちら



2011年8月14日日曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(4)



送迎会の際、Praktikant全員で一曲歌ったと書いたが、これはPraktikumを始めた頃には考えられないことであった。
当時、2つあるPraktikantが住む宿舎は、完全にドイツ人とそれ以外(ほぼ日本人)と分かれていて、ドイツ人の方の荒れようも酷かったけど(単に若い)、私はその状況から感じる"日本人隔離された感"が本当に嫌だった。その後、国籍を混ぜる案が上から提案され、当時の住人にアンケートを取った結果、「混ぜる」ことになり、半年の短期滞在者と1年など長期滞在者で振り分けられることになった。・・・
今ではほんとうまく混ざっており、非常に色んなことが改善され、よくなったと思う。

こんな日本人だらけの所に来ておいてなんだが、ドイツにいて日本人で集うのも何なので、休みの日に出かけるなら、自然に一人でふらふらすることが常だった(日本にいてもほぼ同じ過ごし方)。それは私の基本形だが、以前は日本人隔離から逃れたかったことが大きかったように思う。冬、極寒だったときは出かけること自体今より少なかったけど、暖かくなってきた3月、別の宿舎に引っ越したことが大きな転機だった。これによってドイツ人のPraktikantと過ごす時間が増え、ナチュラルにドイツにいる感覚に近づいて行けたのだ。それまでのように日本人隔離された感から解き放たれ、それを感じることはなくなったが、平和村自体が大きな隔離であるなと気付いた。

それはさておき、あの状態がずっと続いていたら、例えば昨日のように日本人4人でOLGASROCKに行ったりしなかったかもしれない。そうした変化をものすごく気付く今日この頃。
今日、今回の援助飛行の第一弾、3人の子供がアルメニアに帰国しました。9月2日まで続く長丁場、色んな場面を見れたらいいなと思います。

2011年8月12日金曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(3)


昨日は月末の援助飛行で帰国する、アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、グルジア、アルメニアの子供たちの送迎会があった。
なんだか、あっと言う間だった。
子供たちがダンスを披露したり、職員がBabysitter boggieを仮装して踊ったり、Praktikantも全員で一曲歌ったり・・・ いつものソーセージとパンに変わって、ピザが出され、最後は皆踊りまくって終了という流れ。
もちろん帰る国の子供たちが主役なので、アンゴラの子供たちからの出し物は控えめになるが、今回よく気付かされたのが、アンゴラの子のダンスに他の国の子供たちがものすごく感化されているということ。特に男子。でも女子はかぶれることなく、自分たちの持てるものを出していた。通じて言えるのは、特に立つことや歩くことが困難でドイツに来て、治療を続けて来た子供たちが、松葉杖なしで思いっきり踊っている姿は、いつもほんとに感動もの。

過去3回の送迎会は、毎回早番だったので、縛られることなく自由に参加できたが、今回は遅番に当たったので、業務中のパーティー。村で一番最年少の子が調子が悪く、昼ご飯を何度かに分けて吐いていたので、すごく心配でした。ぐったりしてしんどそうなので、あんな爆音のかかったところよりは、外に出したいなと思っていたけど、そうしないのがこちらの感覚。大事には至っていないので、大丈夫だと思いますが・・・

食事の後、もう皆好き放題に踊りだし、カオスな状態で、極小サイズの子供が危険に巻き込まれそうな時もあり、ひやひやしながら私も楽しんでいましたが。こんな時に気になるのはいつもアフガニスタンの大きな女の子の一角、気付いた時には皆涙を流していました。長くいる子供たちは、このあと別れが来ることを知っているので、一見楽しいパーティーですが、それが終わった後は悲しそうにしている子もいました。
インターネットや郵送手段を気軽に利用できる環境にあれば、別れてもまたすぐに繋がれる可能性がありますが、ここに来る子供たちの場合、あらゆることに耐えて毎日一日中一緒に過ごしてきた友達と別れると、再び会うことが非常に困難なため、彼女たちの悲しみは想像に絶します。
特にアフガニスタン方面とアンゴラの子供たちが別れるのは、もう一生会えない可能性の方がはるかに高いので、こちらもあの仲良かった2人が一緒にいるのをもう一度見たいと思ったりしますが、せめて、遠くに友達がいることを忘れないでいてほしいと思います。

帰国まであと10日ほど。無事に残りの村での日々を過ごしてもらいたいです。


Praktikumの終わりに見えてくるもの(2)


最近どうも腰がつらい。
休暇が明けて、少し働き始めた頃、何をするにも立っているのもつらくなり、ひたすら椅子を求めた。
その話をリハビリ部で作業療法のボランティアをされているAさんにすると、ちょっとほぐそうか?と素敵すぎる提案をしてくださった。6月頃、それは精神的な疲れからくる全身疲労がピークに達し、気になっていたタイ式マッサージ屋に駆け込んだが、あと一歩でまた足を向けてしまうところだった。
ソファーに横たわり、ちょっと腰を中心にほぐして位置を調整してもらう。すると数日は特につらさを感じることなく働けた。その後、再び今後はリハビリ部にある施術台で見てもらうと、結構左右の筋肉に差があることを指摘される。腰の右側に筋肉が少なく、右のお尻の筋肉も衰えているようだ。何より骨盤が前傾し、腹筋がないため、腰だけで何でもやってしまっていたため、疲労が溜まってしまっていたようだ。

私が働いているのは小さい子供の部署なので、7kgから15kgくらいの子供のおむつを変えるために、常におむつ台に上げ降ろす作業をする。私はそのおむつ台の高さは大丈夫だが、ドイツ基準の高さなので身長が150cmくらいの人にはかなりつらい。また、歩けない子はトイレに連れて行かなければならないし、そうした行動に問題がない子でも、バスタブから出したりするためには持ち上げる必要がある。
今その子は義足を付けていて一人で歩けるようになったが、四肢がない子がいる。本来なら小さい子供の部署ではなく、女の子の部署にいる年齢なのだが、何せ補助すべきタイミングが多いのでこちらに来た。私は何故か彼女に「トイレに行きたい」と指名されることが多く、バスルームにあるおむつ台にまず乗せ、服を脱がし、トイレに座られる(とその逆)をものすごくしていた時期があった。思えばその時、腰任せにするのではなく、もっと腹筋を使っていれば今こんなに疲労を抱えることはなかったと、付けが回ってきたように実感する。その後、彼女が義足を付けて歩行訓練を行うようになり、脇の下を両手で支え歩行を助けていたときは、かなり両腕の筋肉が鍛えられた。

最初このPraktikumを始めた時は、前職と違ってデスクワーク(たまに病院内を縦横無尽に駆け回る)ではないので、身体を動かす感がとても気持ちよく、スペアの肩が3つ欲しいとも思わなくなったが、実は重労働なので、後々疲れがでないように意識して動かないと、結構な代償にも成り得るなと今になってわかりました。
とりあえずまず腹筋を鍛えないと・・・


2011年8月8日月曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(1)


今週は金曜日にならないと、最高気温が20度台にならないらしい。
窓から見える天気は暗い。まるで10月後半のようなどんより雲。

今回行われる第63回目となるアフガニスタン方面の援助飛行は、当初8月17日にアフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、グルジア、アルメニアの子供たちを乗せたチャーター機が到着し、20日に治療を終えた子供たちが帰国する予定だった。
7月25日には援助飛行チームもアフガニスタンに入り、医療援助が必要な子供たちとの渡独を毎度のごとく準備するはずだったのだが。なんと予定していたチャーター機が、運行に断りを入れてきたとのニュースが村にも届いた。
聞く所に寄れば、アフガニスタン方面の援助飛行ではタジキスタンの航空会社の機体をチャーターすることが多いそうで、今回も予定されていたのはタジキスタンのEast Airだったが、いきなりキャンセルされた。タジキスタンから来ている子供だっているのにだ。
チームは代替のチャーター機を出してくれる航空会社を当たったが、結果見つからず、今回の援助飛行はすべて定期便での運行になった。
2008年にも定期便を使用したことがあったそうだが、その時はチャーター機の値段の高騰が原因だったそうで、定期便を使ったほうが安かったとのこと。今回は一人の子供に対し、500€を支払わなければならないらしい。寄付のみで運営している団体のため、財政は常にかつかつの状態だが、余計に苦しくなることは間違いない。
改めて作成された援助飛行の予定は、17日のグルジア、アルメニアの子供たちの渡独を皮切りに、26日のアフガニスタンの子供たちの帰国と、10日間に及ぶ長丁場になる予定です。
さて、どうなるか今回の援助飛行。


2011年8月7日日曜日

誰もわかってくれない


また書きたいことが沢山あるのに書けず、頭の中のタスクが溜まる一方な日々を送っています。
ここにいるのも最後の2ヶ月。果たしてここにいるうちにどれだけ処理できるのか。

ちょっと勝手に悲観的になりますが、
別に私は秘密主義な訳でもなんでもなく、ただ人との共有の仕方がわからない、不器用な人間だと思いますが、自分が嬉しいことを初めて人に伝えた時でも、「おめでとう」と言ってもらえない時には、さすがに凹みます。自分という人間に対して不安になるし、余計に開き直りそうでもう嫌です。自分がどれだけそれを望んできたか、伝達不十分で、かつそれは一般的に見るとあまり素直に喜べるべきことではないのかもしれないけど。私が無知なだけで。
私の絶対的な味方になってくれる人は、人間でいるのか疑いたくなる。
それだけ私はどこかおかしいのか。

確かに声の出る発声もとは特徴的だと、最近子供にマネをされるのでわかるけども(小学校の時もそんなことがあった)、私だって孤軍奮闘しているだけなのです。私という人間をちゃんと理解してもらうことが、こんなに自分が苦手で難しいと思わなかった。単純に私が言葉を沢山発する割には、その本意を伝えられてないことが原因だと思うけど。それなのに、勝手にわかってもらえていると期待し過ぎるから。なんて痛い子なのでしょう。
私の絶対的な味方はどこかにいるのか。

例えば何か物を頂くとする。近年よく集まってきたのは、何か綴ることができる物。要するにノートや書くものなど。確かにこうしてたまにブログに書くし、それを見てくれた上でそれを贈ってくれるのは嬉しいけども、私は紙には日記を書かない。むしろネット上に置くことで、それを所有することを避けている。他の使用の仕方もあると思うけど、結局まだ日の目を見れていない。私は物を所有することに関して、非常に慎重になりたいのです。小さい頃から気難しかったのか、現金をもらったりもした。どうしてだろうか。また、一時的にとても肩入れをするものが、単純に無難だろうと読まれるのか、そういったもの。

例えば何かメッセージを頂くとする。大抵よくあるのが、私はそのまま突き進んだらいい、という趣旨の文。肯定してもらっているのは有り難いけど、私は実験台かと思う。傍から私がどうなるのか、好奇の目で見られている気になる。ただそれだけ。
これが負のスパイラルかどうかは、今のこの状況から脱しないとわからないけど、そうだといいなと思う反面、そう思うことを解決しないとまた同じ目に遭う。


先日、来年平和村勤続40周年になるベトナム出身の職員の家に呼んで頂き、お昼を御馳走になった。写真はその時のもの。

2011年7月24日日曜日

26年振りの両親の訪欧


先日7月15日から19日まで、両親が平和村に2泊、パリに2泊と欧州に来ました。
これは新婚旅行以来初めての、26年振りのことで、
フクシマ以前に奇跡的に決め、実行することができた旅行。
偶然、私の休暇の最後の5日間とも重なり、私の当初の計画が崩れたため、
全行程を共に過ごすことができました。

これは1日目、Düsseldorfの一番古い教会にて。



4日目。パリでパサージュを巡り、世界の街角に立った充実感に溢れる父。
特に憧れのショパンホテルの前ではもう。


同じく4日目。オペラ界隈のモノプリで、キャスター付きのお買い物かごに喜ぶ母。(私が持たせました)
購入したての土踏まずが歩く度に気持ちいい靴を履いて。


最後の夜は、父の姉、甥と甥のフィアンセと姪と7名で老舗大衆食堂へ。
私がバカのひとつ覚えで行きたがるムール貝の食べれるチェーン店"レオン"に行かなくてよかった。
本当は行ったんだけど、空いている席が全く落ち着けない位置で、こちらに連れて来てもらえて本当によかった。


私がでかいですが、お母さん、うまく交わしてくれました。
23時のキラキラタイム終了後のエッフェル塔をトロカデロから。
眼鏡家族です。

両親は本当に喜んでくれてよかったのだけど、私は反省する点が在り過ぎて、
思い出せば出す程、後悔の念にかられます。
これについては次回洗い出し、今回の旅行の私サイドを整理したいと思います。


2011年7月10日日曜日

平和村がルール工業地帯に位置する利点


(画像はWikipediaから拝借しました)

このドイツ地図の西部、高速自動車国道:アウトバーンの路線番号が振られた青いマークが密集している地域の真ん中に、平和村はあります。密集している辺り全域がルール工業地帯であるため、おびただしい数のアウトバーンが建設されました。ちなみに北部中央のマークが集中している所がHamburg、北東部がBerlin、ルール工業地帯より少し南西にずれた所がFrankfurt、その下にMannheim、南東部がMünchenです。
年に4回、アンゴラから、アフガニスタン方面から到着するチャーター機がDüsseldorf空港に到着した後、毎回100名弱の子供の半数が、ドイツ赤十字社の救急車によって、ドイツ全土に搬送されます。自動車から排出されるCO2を考えると、それが鉄道だったらどんなにいいだろうと思うのですが、どんな病気を持っているかわからない子供を公共交通手段に乗せるわけにもいかず、重病をかかえた子供にかかる負担や、付き添う人のことを考えると、それには車の方が適していると言わざるを得なくなります。

ここの地方に住む人は、自家用車に乗ることが当たり前で、鉄道より車移動を好む人がとても多い。乗り換えが嫌とかそんな理由で、がんがんCO2を出す人たちが、ここには住んでいるのです。人口5、60万規模の街がいくつもある、人口密集地帯なので、移動手段の選択肢が多くあっていいのかもしれないけど、"アウトバーン天国"とも言われるほど、ここに住む人たちの車との親密関係はぞっとしてしまうほど深い。都市間の移動も頻繁に行われる、そんな土地柄です。

平和村に通勤する正規職員も、ほぼ皆、車通勤。場所柄、それは仕方がないのかもしれない。平和村では登録ボランティアの方が、子供を病院まで届ける運転手をしてくださる場合がよくあるが、例えばかなりここから遠い場所、HamburgとかMünchenだと、委託会社からの運転手が担当する。隣近所の街だと、登録ボランティアの方が送り届けてくださったりする。以前子供が再入院のためMaizの病院に行く予定があり、その子の出発の準備をしていたら、迎えに来たのは登録ボランティアの品のいいおばさんだった。この人が南に250kmも車を飛ばすのかと思うと驚いた。私が車を運転しないからそう思うだけかもしれないが。私はkm的感覚がないので調べてみたら、京都から浜松とちょっとその先くらいまでの距離。京都で育ったからそう思うだけかもしれないが、日本だったら主婦が子供を連れて、そんな距離を車で移動するのは想像できない。でもそんなアウトバーン網に、平和村の子供たちは支えられているのです。

でも私は働く車ならまだしも、子供が車に対して憧れを持つきっかけが沢山あることを、全く良くは思いません。子供たちに医療的援助しかしない(それ以外をする余裕がない、かつ余裕をつくらない)平和村では、それに対する教育なんてされるはずもなく、その点を私は残念に思います。"せっかくドイツに来ているのに"と。
ちなみにかつて私がいたFreiburgは、地図の一番左下から2番目の、大きめの青いマークがあるところです。通っているのは一本のみ。このアウトバーンの路線図だけ見ても、暮らしが違うことは容易に想像できます。私にとっては、いるだけでストレスになるか、幸せになるかくらいに違います。Oberhausen以外に住んでいる人からも、この街についていい意見を聞いたことがありませんが、平和村が設立されたことと、市や市営バスが積極的に協力してくれていることは、良いことに違いないと思います。

2011年7月3日日曜日

とある日の翌日の続き


帰ってくると、この日のグッバイパーティーの主役や皆がひらすらピザと格闘していた。
私もトマトソースをレシピに添って作り、最終的には2箇所に分かれているPraktikantの宿舎のオーブンをフル活用して、手のひらサイズのピザをひたすら焼いた。その間私がたまに作る、りんごの焼き菓子的なものも作ったりして、結局20時開始の予定が、食べ物がすべて出来上がったのが21時でした。
パーティーは平和村敷地内の食堂のある建物の上部。この部屋は会議やセミナー、パーティーなどに使われます。手分けしてセッティングしてくれていた子の仕事は、おおさすがと言う感じ、ものすごく時間がなかったのに、元レストラン勤務なだけあって綺麗に完成していました。20時と聞いたゲストの皆さまが、すでに持ち寄りの食べ物をテーブルに並べ談笑していました。


明日ケルンに帰る主役は1月からの半年間、基本的には本部の平和教育部門でのPraktikumだけど、週2で子供たちの日常の世話部でも働いていたので顔が広い。元Praktikantも集いました。同じ宿舎に暮らすメンバーで、その子がまさに好きそうなカゴを贈りました。喜んでもらえてよかった。ピザも彼女が仕入れたレシピや、彼女と仲の良い深夜帯のスタッフの友人(学生時代6軒のピザ屋でバイトをしたという)のレシピなどでとても美味しかった。でも製作部隊は割と疲れがでたため、皆だいたい2枚食べて満足していました。

翌日はお片づけ。パジャマパーティーからパーティー片付けの繰り返しも、これでようやく一区切り。この日帰る彼女もパッキングをこの日から始めたけど、夕方には素敵なお母さまが借りたレンタカーで去っていきました。慌ただしいけど、盛りだくさんの3連休でした。



2011年6月19日日曜日

とある日の翌日


朝、起き上がるのが辛い中、寝転びながら回りがすでに活動的に動いていることを察する。
前日、というかその日の2時半頃まで隣の部屋で飲んでいて、3時間程しか寝ていないなと計算する。驚くべきは、このパジャマパーティーを企画した職員とむしろ準職員とも言えるベテランボランティアのパワフルさ。同じく子供の間に寝て、6時に起床したらしい。普段6時半から子供を起こしにかかるので、場所はいつもと違えど、ここから普通の生活に戻ります。

結局大人の中では私が一番長く寝ていたらしいけど、そんな私も子供の着替えを手伝いにかかる。ほとんど起きているけど、2人程まだ布団に埋もれている子もいる。7時半から朝ご飯なので、普段生活している場に戻り、早番とも合流して、そこからはどうぞよろしくと言う感じ。ちなみに前述の職員は、遅番→早番というシフトに自らしたようで、自らも4歳の子供がいるのにタフだなぁと感心します。私らはマットレスと元のベッドに戻したり、後片付けをします。この時間には既に動いている大きい子供がいるので、彼らに手伝ってもらうと割とすぐ終了。そこから私も部屋に戻って着替えて、今度はこの日にPraktikumを終了し、翌日家に帰る子のお別れパーティーの準備。パーティー自体は本人が基本的に仕切るので、その彼女に贈る写真たっぷりの寄せ書き本を皆で仕上げていきます。

お昼を食べた後12時半、本部の日本人職員2人が車で迎えに来てくれて、オランダ方面に30分ほど走ったところにある、Weselというまちにある病院に、子供のお見舞いに行った。1歳半の5月にアンゴラから来て空港から直接病院に搬送された男の子。この子のもとには、毎日登録ボランティアの人がお見舞いやお世話をしに来てくれるそうだけど、ちょうどこの祝日の週末は都合がつかなかったそうで、誰か行ける人はいないか、平和村のメーリングリストで連絡があった。皆他のPraktikantは、割と子供が入院しているところを目がけて旅行をするようにお見舞いに行く人もいるけど、まだ誰のお見舞いも行ったことがなかったので、行くことにした。まだ会っていない子のお見舞いに行くのは不思議な感じだけども。

(小児病棟にある子供の遊び部屋) 

小児病棟の集中治療を行う病室にいるとのことだったが、ナースステーションにベビーカーに乗せられて私たちを待ってくれていた。誰ベースで誰のまゆげで誰の輪郭でと即座に浮かんだほど、なかなかかわいい“えりちゃん”。本名が固いので勝手にこう呼ばせて頂くことにした。左足の付け根から足首まで、金属の固定具で骨が固定させられていて痛々しいけど、その足首から先がよく動く。打ち解けるのに2時間程かかったけど、最後は歯を見せて笑ってくれてとてもよかった。私は最近爪切りが好きで、割と入院している子は爪を長くしたたま帰ってくることもあり、えりちゃんの爪も長めだったので、看護師さんに爪切りを借り切ってあげた。嫌がられたけど、これで靴とか履くほうが痛いのです。

(ナースステーション前にて)

ドイツの総合病院に行くのはこれが2度目だけど、エントランスから病棟までどこもかしこもすっきりしていて気持ちがよい。病院にいて気持ちがよいというのも変だけど、日本の病院と比べると、慌ただしい感じもなければ、ごちゃごちゃした感じなんてまったくない。むしろ見た目にも仕事的にも、私たちの仕事が余計にごちゃごちゃさせていたと思うが。それはともかく、そんなに数も多くないであろう入院中の子供に対して、あの面積を病室ではなく遊び部屋にできる余裕。むしろそういう法律でもあるんだろうか。すばらしき人口密度でした。
2時間ほど滞在して、病院を後にする。日曜だからか余計に人が少ない気がする。
ちょっと長くなってのでこの辺で。まだまだこの日は続きます・・・


2011年6月15日水曜日

とある日の前日


とある日の前日。

偶然、というかあまり熟考されず作成されたシフトのせいで(それができないのは労働環境に問題アリ)、1ヶ月と1日ぶりに早番のシフトに入った。休暇を1週間挟んだけど、要するに遅番しか入っていなかった。
ちなみに早番は6:30〜14:30、遅番は14:00〜22:00。深夜帯はその専門のスタッフが入る。仕事が始まる15分程前に事務所に行き、一通りの情報に目を通してから動く。早番の場合、前日長々と起きていられない(そういうたちではない)が、終わってからまだまだ一日がある。朝起きるのが少しきついだけで、私は早起きが苦な人ではない。遅番の場合、理想では早番と同じ時間に起きたいが、ゆっくり寝てしまい、仕事があることを頭に入れて動かなければならないのが少し苦。でも子供が20時には遅くとも寝に入るので、接する時間が少ない分、身体が楽。
本当はその前日2日も早番だったのに、遅番に代わってほしいと職員に言われ、代わった翌日、二度寝をしてそれを知らせる電話の音で起きました。6:38に携帯の時刻を見て、6:45には職場に着ける環境。むしろ外から回る必要があるけど、同じ建物の下に住んでいます。

ひさびさの早番は、子供を起こすところから始まり、終業までひたすら子供に追われる具合なので、時間が過ぎるのが早く、終わったときはなんだか新鮮でした。これを1ヶ月していなかったのかと。そんな今日もこの日ぶりの早番で、相当行っていなかった金属の固定具(見た人にしかわからないけど、BLACK SWANでウィノナ・ライダーが付けていて、病室に見舞いに行ったナタリー・ポートマンが驚いた装具)を付けた子供たちのシャワーを監督しました。朝食後にリハビリに施設に行き、そこでシャワーをした後、その固定具のコントロールや新しい包帯が必要な子供が処置をされます。遅番ではないので、それも新鮮。ああ私覚えている!(当たり前)という感覚になりました。

それはそうしとして、6月から最後の3分の1が始まりました。
なんだか色々問題があったし、常に問題(深刻な)はありますが、何が来てもどーんと構えて働けるようになったと思います。やること自体に慣れるのにはそんなに時間がかからないけど、時間が経つにつれてやはり知ることが多くなり、色んな人(正規職員)の働き方や頭の中が少しずつ見えてきて、気持ち的に楽になったと思います。私が来た時にこの時期にあった人の落ち着きぶりがわかる気がします。
何せ、3ヶ月ごとに約100人の子供が国に帰り、約100人の子供が新たにやってきて、さらに同じくPraktikumをしている仲間の入れ替わりもあるので、出会いと別れが本当に常。子供との別れはそうではないけど、仲間に関しては同じところに住み、働いているのに、なんだか鈍感(もともと?)になってしまいます。なにより落ち着いてふっとなれることが乏しい。ごーーーっと物事が過ぎていくようです。
頭の中の整理もしながら、時間をもっと有効に使い日々を過ごして行きたいと、まず3連休の過ごし方を考えた、とある日の前日でした。

写真は4月のとある日


2011年6月14日火曜日

とある日のこと


とある日のこと。

この日から初の3連休。基本的に2日連続の休みですら、月に1度しかないのでこれはすごいこと。偶然世間の祝日とも重なりました。恐ろしく拘束されている私たちなので、3連休もあったらどこかへ行ってしまいたい気もするが、色々とイベントもあり、部屋の整理をしたいので村でゆっくりすることに。
最近色んなことを考え、ここの黙々と一人になれる場所が基本的になく、目まぐるしく出会いと別れがある生活環境に疲弊していた。しまいには子供(4、5歳児の女子)たちとマッサージの会を開くほど。働いていたとき、辞める前はほんとによくタイ式や足裏リフレクソロジーに通っていた。誰かに本当にほぐしてもらいたくなったので、目を付けていたタイ式マッサージのお店についに行くことにした。

土曜日だったので開いているか心配したけど、そこは問題なく。ドアを開けるとあのスッとする匂いと同時に目にはいるタイらしい装飾。これを欲していたのか、泣きそうになってしまった。タイやアジアを卒業したはずなのに、あの癒しの香るタイの空気を懐かしく思う。お客さん対応中のタイ人のおばさんが出て来て、13時が空いているからと予約を取ってくれた。2時間ほど時間をつぶし、ちょうど頃合いの時間に戻り、少し待つと私の番。1時間のアロママッサージ、27€。アロマなしで25€と日本では考えられないお値段。果たしてどんなものか。オイルやアロマを使うマッサージを受けたことがないのでそれも初。言われた通りに下着のみになって、ヨーロッパサイズな施術台に乗って待つ。

受け終わって思った感想は、値段相応かなと。おばさんは感じがいいし、慣れていて良いんだけど、ざーっと一通り全身を流された感じがありました。要するに、本気のプロでは無く、便宜上のプロ。ルール工業地帯の時代を終えた労働者のまちで、良質なものが受けられるかということも期待半分だったけど。タイ北東部(Nong KhaiとUdon Thaniの間付近と理解した)出身のおばさんにどこで学んだのと聞くと、ドイツとのこと。タイ式マッサージ師養成ネットワークもドイツにあるらしい。私がドイツでSushiを学んだように。無収入なので通うわけにもいかないけど、また本当に欲したら行こうかと思う。凝り返しがなく、一定の満足度は得られるので。

写真は4月に撮ったもので晴天だけど、ここ最近は雨が一時的に降ることが多く、前より気温も下がった。店を出た後、雨に会ったのでちょっと大回りな路線バスに乗って村に戻った。
この日はBBQとパジャマパーティーが行われる。そのため私も準備を手伝おうかと思ったら、もう既に終わっていた。一人の正規職員と参加したいPraktikantが小さい子供と体育館(小規模)にマットレスを敷き詰めて寝る。BBQは全子供が参加し、単純にパンにソーセージを挟んだものが作られた。ソーセージを焼いているのは主に学びの場の職員とPraktikant。お決まりのように男子たちが食い物を求めて押し合うのを正規職員は傍観している。これがここの労働+子供が追い込まれた環境。偶然、週末2泊3日で学生のグループ(45名)が村に来ていて、彼らが飲み物の準備などをかなり手伝ってくれていた。私は休みなのであまりストレスなことはせず、テリトリーの小さい子供たちに食べ物が行き渡るようにし、彼らのもう食べられないとか飲み物が飲みたいという要望に答えた。

この後はいよいよ楽しみにしていたパジャマパーティー。普段遊びに行く場所に、自分たちのベッドが敷き詰められた状態に子供たちは大興奮。アイスが配れ、その後はひたすらぎゃーぎゃー言いながら敷き詰められたマットレスの上で思い思いに遊ぶ。子供たちの何人かは、私も今日ここで寝るのかと、誰かに聞いたことを確かめに聞いてくる。そうだよと答えるときゃーきゃーまた喜んでくれる。この空間にいる職員も子供も皆いい気分で楽しんでいた。その後さらにお菓子も配られ、みんな落ち着いて本などを見だした頃、その中の小さいメンバーが普段寝ているベッドへと送還。それ以外のメンバーもぼちぼちパジャマに着替え始める(着替えるのを手伝う)。。。そして正規職員の持参したノートPCで映画の上映。なんだか音が小さくて、Praktikantが持っているスピーカーを付けてもうまくいかないので、私のPCがおそらく音が割りと大きくなるかもと思い、結局期待したほどにはならなかったけど、そのまま見ることになった。少しして、じっと見ていられない子供(相当キャラの濃い愛されキャラ)と私はでんぐり返りなどをしていると、その子のスイッチを入れてしまったのか、顔面に何種類かの方法でかなりの痛みを与えてきた。他の子も来て髪も引っ張られるので、なんだか袋だたきにあったような気分だった。でもその後その子と絡んだPraktikantは顔面を流血させられていたので、セーフと言ったところでしょう。映画が終わるころには、職員やよく来てくれるボランティアもパジャマに着替え、気が付いた頃にはあの子を除いてほぼ全員の子供が就寝。その子の動きが面白いので皆で鑑賞して笑いました。ナイトサファリみたいだった。

この後、正規職員、深夜帯の職員やボランティアなど、従業員で子供たちが寝ている横の部屋(普段は子供が工作などをする部屋)で、飲みながら仕事のことなどを話したり、プライベートな旅行の写真を見たりして、なかなかないいい機会でした。この日遅番だった人は大変だったけど、翌日も休みの私は時間も気にせず気楽にがっつり参加して大満喫でした。子供と子供の間に寝れるスペースを見つけて横になり、眠りに落ちる。

2011年6月7日火曜日

子供が新聞に載っていました。


(写真は新聞に掲載されているものです)

お世話をしている子供が新聞に載っていたので紹介を。→ Berliner Zeitung, 01.06.2011
1月から6月までポツダムの病院に入院していたマルコジ。先日3日に退院し、平和村に戻ってきました。
術前は、先天性の下腿の異形で直立ができませんでしたが、特別に作られた靴を履き、誕生日に看護士から贈られたサッカーボールを思いきり蹴ることができます。
治療と入院費用は日本円で約350万円(本日のレート)。これが病院負担で賄われるというのがドイツの社会のすごさ。平和村の協力病院は100病院ほど、ドイツ全土からオーストリアまで広がります。
現在の治療段階では左足が右足より4cm短いマルコジ。8月に一度グルジアに帰国しますが、2年以内に再度渡独して治療すると、比較的普通の靴が履けるようになるだろうとのこと。このように外科的・内科的症状を問わず、何度か渡独をして治療を続ける子供がいます。母国での医療環境が、病院・家庭ともに整うことが望ましいですが、それが叶わない限り、平和村が存続される意味があるのだと思っています。

2011年2月21日月曜日

そして、帰国

2月19日15時過ぎ、100名以上の子供たちは村3台のバスに分かれて村を出発し、
デュッセルドルフ空港からチャーター便に乗って帰国の途に着きました。
私はその日14時から遅番で、いつもなら30分前くらいに出勤するけど、早めの13時頃に行ってみると、ちょうど子供たちはお着替え中でした。普段子供たちは寄付され、何年も使われているような服を来ているけど、この時は新品やそれに近いもので、最後のおめかしをします。アフガニスタンの小さい女の子なんてほんとかわいい・・ 
それぞれの子供の最後の晴れ姿を目に焼き付けながら、順番にTschüßと言いチュウをしました。
その中には前日、土壇場で急遽帰国が決まった子がいました。16日に救急車で外来受診から帰って来たときに、私が出迎えたその子です。その時、パジャマに着替えさせながら、ドクターは何て言っていたの?と聞くと、“家に帰って、パパ、ママに会えるよ”と言っていたと言い、それを聞いた私も職員も、まさか今回の帰国のことではないと思っていました。その子の場合、半年前に来てからオペや治療など特に具体的なことをしている様子はなく、ただ村で生活している状態。何故急遽帰国が決まったかと言うと、オペをするならかなり大掛かりになるため、一度帰国してまた来るということ。半年後、私はまた会えるのでそれがとても楽しみです。

帰国に伴い、1ヶ月ほど前から帰国が確実な子供と場合によっては帰国できる子のリストができ、服や入院中に病院でもらったものが入れられたカバンが作られます。この子の場合、そのカバンも作られていなかったので、ほんとに土壇場でした。
このように急に帰れるようになる子も入れば、帰国ができなくなる子もいます。まだ顔が見られるのは嬉しい反面、帰ってほしいと思っていたのにそれが叶わなかったのはなんだか複雑です。
前日の昼ご飯の後、帰る子供の名前が食堂で発表されましたが、特に大きな女の子の場合は、仲良かった子同士の別れで、ずっと泣いている子もいます。小さな子供の場合、まだあまり理解していない子が多いですが、それでも"家に帰ること"、
"さよならを言うこと"はわかっているので、仲良かった女の子同士がTschüßを言いっている光景はかなり切なかったです。

出発の時、子供たちがバスに乗り込む姿を、私は16日に来た子供たちと一緒に窓を少し開けてみていました。
新しく来た子供はまず最初の数週間は隔離されるのですが、この隔離部屋にいた子の一人もバスに乗り込みました。診断のために来て、すぐ病院に行き、帰れると判断された場合はこの子のようになります。
私はすでにバスに乗車し、こちらに気付いてくれた子と手を触り合ったり、投げキッスをし合いながら、全体的な様子を見ていました。見送りに来られる村中のスタッフに見送られ、バスが出発し、振り返ってみると、隔離部屋にいる子のほとんどが、ツターっと静かに涙を流していました。全く言葉も文化も異なる国で不安でいっぱいの中、自分が来たルートを逆に辿れること、その先にあることを思って泣いたのでしょう。あまりにしんみりした空気だったので、ちょうどおやつの時間だったのでそちらに気を持っていき、皆でアーモンドと香辛料の効いたクッキーを食べました。この時のおやつが美味しいものでよかった・・・

前回11月のアンゴラの援助飛行の時は、まだ働き始めて1ヶ月ほどだったので、それほど感傷っぽくならなかったけど、4ヶ月半の間、お互い本気で向き合った子供たちのことは、まだまだ残像が見えそうです。食い意地が強く、かなり大きくなってしまった子の重量感とか、肌がすべすべのグルジアの赤ちゃんとか・・ 
アンゴラの援助飛行の場合、先に子供たちが帰国し、その後で新しい子供たちが来ますが、アフガニスタン方面の場合、順番が逆になります。本部の人に聞いたところ、毎回タジキスタンの航空会社をチャーターするそうですが、今回は空港で待っていてもそれらしき機体は現れず、キルギスタン航空の機体からパートナー団体の人が現れ、それだとわかったそうです。

帰国前日には、その機体に乗ってきた、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、グルジア、アルメニアの現地パートナー団体の人や、チャーター便の乗組員の人を招いてパーティーがありました。キルギスタンエアーのCAのお姉さんたち、日本人と間違われるほど顔がEast Asia系で、スタイルが抜群と噂になってました。ちょうどこの援助飛行の取材で、平和村のことを長年記事に書いておられる、カタログハウスの方もいらっしゃいました。
平和村の代表が最初に挨拶をし、長年連携しているパートナー団体の人に挨拶をする中、その人の来村や日本からの援助のことも取り上げ、異例に思えるほど、全体のスピーチからしても割合を割いていました。日本からの援助なしにはこの場は開けないと言っていたほど。実際、日本にウルルンで紹介される前と後では、平和村の姿や規模はかなり違い、その前の状態も知っているこのカタログハウスの記者さんに託された希望は、ウルルン無き今かなり大きい。日々働いていると、どれだけの日本の人がドイツのNGOを支援しているか、正規の職員こそ知る機会がないように思うので、ここまで代表が言及したことは嬉しかった。ただかなり休みの少ない激務なので、この時も勤務中や翌日早番の人が多いのか、参加している人が少なかったのは残念だったけど。

以上、アフガニスタン方面の援助飛行リポートでした。