2011年2月18日金曜日

初日


またコンタクトを付けたまま寝てしまった。
というのは仕事がハードだったわけではなく、グルジアの"黒ワイン"を飲んだから。
私たちが住む宿舎には、前回のアフガン方面の援助飛行で子供たちと一緒に来た、グルジア人のドクターも一緒に住んでいて、そのお母さんが今回の援助飛行で来て、色んなグルジアの食べ物やお酒やらを持ってきてくれたのだ。
ちなみにグルジア、ワイン発祥の地らしい。飲んだ黒ワインや、写真の干し柿のような、お手製のグルジアスイーツも自然な甘みが美味しかった。
平和村に来ている子供たちの母国には、それぞれドイツの平和村と連携をしている団体があるが、グルジアの平和村はこのドクターとお母さん、そしてお父さんの3人で運営しているそうだ。家族親戚皆お医者さんらしい。明日治療を終えた子供たちと共に、このドクターもそのお母さんも一緒に母国へ帰るので、昨日はグルジアパーティーでした。

新しい子供たちが来て、実質の初日。職員も皆まだ子供たちのことを掴めていない状態。
私は昨日も遅番で、既にいる子供たちにおやつを配るのに、手を焼いていた。前回11月のアンゴラの援助飛行のときもそうだったが、新しい子供たちが来ると、既にいる子供たちのテンションがとてもあがる。まぁいつもかもしれないが、どうもひどい。冬じゃなければ外でもっと伸び伸びできるのに、最近はほぼ部屋の中で生活しているので、有り余るエネルギーがすべて部屋の中に放出されるとほんとにカオス。身体的に抵抗が出来ない子に、それを理解していない子がちょっかい(むしろ危害)を加えたり、心臓と足が悪い子が二段ベッドによじ登ったりするともう。うるさいところに叫んでことを鎮圧させるのは、効き目も愚か、場合によっては子供がそれをおもしろがってことが悪化するだけなので、基本したくないが、反射的に声のボリュームがあがる。

そんなところにお達しが。今から隔離棟に行ってくれと。
基本そこは男の子か女の子の担当が行くので、小さい子供担当だとこんな機会がないと行くことはない。前回はまったくお呼びがなかったので、昨日が初めてでした。
隔離棟は2階が持ち場になったが、行ってみるとものすごく泣き叫んでいる子がいた。その子はカニ歩きのように足を開いて必死に痛みと戦いながら訴えているようだった。もう世界の終わりのような泣き方。少数のグルジアの男の子たちは部屋でおもちゃで遊んでいるけど、タジキスタンとアフガニスタンの女の子たちが、みんな並んで私の方をじっと見つめていた。不安と緊張と好奇心の混ざった眼差し。とりあえず、自分の名前を言い、あなたの名前は?と聞くと、それぞれが答えてくれた。一人、一番年長の子が前に一度来ていたようで、少しドイツ語がわかるのが大いなる私の助け。私ともう一人がとりあえずこの時間帯のここの担当になって、おもちゃの後片付け、晩ご飯、歯磨き、就寝とこなした。
女の子は割と私の問いかけににこにこと答えてくれ、マイペースにお絵描きや疲れたのかベッドに入っている子もいるけど、ドイツ語が少しわかる年長の女の子や、グルジアの男の子たちに一人混ざったウズベキスタンの男の子が少し泣く場面があった。家族に会いたかったり、これからのことを不安に思ったり、色んな感情が混ざって泣くのだろう。晩ご飯時、女の子たちからしきりにお茶を入れたコップを持って「スゥー、スゥー」と訴えられた。私が理解ができないのを見て、一人が洗面台まで私を連れて行き、蛇口を差して「スゥー」だと言った。水が飲みたいらしい。それもわかる気もしないが、とりあえずお茶を飲むようにうながし、子供たちも嫌がりながら頑張って飲んだが、飲むことが大事なので、後から水をあげた。

晩ご飯後、子供たちはすぐに就寝してしまったので、かなり時間があった。
片付けや掃除も既にいる子供たちが暮らしている部屋とは比べ物にならないほど楽。到着して隔離されている間、子供たちは大人しくてお利口だけど、それも徐々にこわれていく。
時間を持て余しているので、今回ドイツに来た子供のリストをずっと見ていた。それぞれの症状や診断を後で調べるためメモする。基本的にドイツや日本では見たことのないような身体の状態の子供がここに来るので、かなり単語がわからない。
必死に書き取っていると、あることにふと気付く。空港から直接病院に行った子が全員アフガニスタンから来た子供なのだ。それだけひどい惨状なのだろう。また結構既に一度来ている子も多かった。

明日はいよいよ治療を終えた子供たちの帰国です。

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