2011年12月26日月曜日

Mein lieber R


ドレスデン大学病院
ちょうど3ヶ月ぶりに、私の一番小さな友達、愛しきRに会いに行く。

午後1時、やはりお昼寝中だったけど、看護師さんに部屋に入っていいよと言われ、入ってみる。目が開いている。誰かわかる?と訊くと、わからないとの回答。でも私の名前を言うと、思い出してくれたようだった。
2時半まではベッドから出てはいけないので、彼はそこで普段していることを色々見せてくれ、ぺらぺらと話しだした。元々ぺらぺらだけど、さらに磨きがかかっているのが、切ない。

今ドイツにいる平和村の子供の中で、おそらく一番長いであろうRが来たのは約4年前。1歳くらいでドイツに来たので、もうドイツの子供。母国語はしゃべれない。今日の午後にサンタが来ると、首をながーくして待ちわびて、用意してもらったシャツとサンタの柄付きネクタイに着替える。顔を腕はむちっとしているけど、元々身体と脚は細い。脚が特に細くなっていた。痩せたね、と言うと、あんまり食欲がわかないからあまり食べれないと言った。

私はその前日の晩寝ずに支度をして、早朝からの移動中少し寝たけど、確実に寝不足。Rは私に、私が自分に対して不安があるのかと訊いてきた。最初なんでそんな問いが出るのかわからなくて、そんな目で見ていたのかと動揺したけど、おそらく寝不足のせいだよと言った。でも治療中とはいえ、痩せてしまったことで表情も変わり、ドイツの子以上に上手く、もみの木の歌を歌えるのを見るのは複雑。

私はもともとどんなに痛々しい身体をしている子供でも、それが子供に伝わるような目は絶対にしてこなかった。誰だってそんな哀れんだ目で自分を見られたくないし、あくまで普通の態度を取ってきた。でもさすがのR、自分は普通にしていたつもりでも、寝不足のせいか、ほんとうに目にでたのかわからないけど、やられました。

雪が降り出したことを喜び、窓に張り付いて、あのヘリコプター降り場に、サンタはそりに乗ってトナカイと一緒にやってくるんだよ!と期待高らかに待ちわびる。そちらに興味を惹き付けていると、看護師さんが扮したサンタ登場。まずは別の病室にいる子供に、その子供の家族から託されたプレゼントがサンタによって配られる。何箱も、渡されて行くのをRは見る。歌を歌ってとRに言われたわけじゃないのに、先陣を切って歌う。そうしてようやく自分の番、ひとつ、ふたつと箱をもらい、真剣な顔で喜び、包みをほどく。playmobilの救急車が本当にお気に入りだと、満足そうに言った。

前に来たときは夏のように天気もよくて、外で遊んだり、べったりして楽しんだため、気が付いたら看護師さんと特に治療の話もせず帰った。ひとりドイツの長いRの取り巻く環境を含めて特に心配をしているような、看護師さんと話をした。私はどうにか今度の2月の援助飛行で帰れるのではと、思っていたけど、いい返事ではなかった。治療がうまく進んでいないわけではないけど、まだまだ帰すには危険なのだ。

一体彼はどうなるのだろう。平和村に来る子供は基本的に皆ただ事ではないけど、Rの場合、その域を越え過ぎている。彼を知る、彼と関わりのある人皆が、その人の立場で彼を本当に心配して、彼にとっての最善のことを考える。彼が再び家族と会える日は来るのか。想像を絶するような気持ちで帰りを待っているだろう。何より完全にドイツ人化してしまったRが母国に溶け込むには、どれくらいの歳月がいるのだろう。その間、彼はどんな想いで日々を過ごすのだろう。考えだしたら全てが悩ましすぎる。

でもとにかく、今は治療が上手く進んで行くことを願う。
単純に、メリークリスマスと言えないクリスマスが、ドイツにもたくさんある。


2011年12月23日金曜日

私の10年




私の10年

私が、私はドイツにしようと決めてからの10年
決して安泰なわけではないが、ようやく続けられることを始めることができた。

私が、私の家族の仏独日ネットワーク構想を得てからの10年
一応達成はしたけれど、その時私の仏に対する想いはネガティブに。
10年前、伯母の領域を侵害したくない気持ちもあったけれど、"なんか違う"と思ったのは正しかった。

私が、"環境問題"と接するようになってからの10年
私が一番重きを置く、一般市民的な感覚において、日本は果たして何か進歩しただろうか。
してなくはないだろうが、その変化がそこに置いて見えない。
"包む"ことが大好きで、"相手を思いやる"ことに長けた日本人が、それが招くリスクを念頭に置けない限り、
東アジア的な性を含めてしょうがないと、諦める方向に私はある。
耐えることのプロになってしまった日本人を形成した気候は、極めて正直である。


私が本当に行きたいところに行けるには、あとどれくらいかかるだろうか。
現実的に、大学の時に真面目に勉強していないと、それが遠のくことを痛感する。


2011年12月3日土曜日

続報



金曜日、疲れて帰宅し郵便受けを開いてみると、封筒が1通。
見た目からぱっとわかりませんが、カードらしきものが入っている感触を得たので、これはGLS Bankからのものだと断定。
無事に銀行カードが届きました。

それにしてもこの封筒、市販で売っているものと何ら変わりのない窓付き封筒。企業だからといって社名を印刷するのではなく、そこも不必要と判断してでのことでしょうか。
どちらにせよ、この潔さ、私は大好きです。こうした包装等に感動するのは、Apple製品以来。ちょうど会社に、カラー印刷で社名や情報の入った封筒が届き、私が入社して以来、毎度封筒に押していた社名のスタンプは仮だったとわかりました。
どういう会社かにもよるし、窓からどれだけの情報が見えるかにもよりますが、私はこの簡素で無駄のない感じにぐっときます。中身も然り、一枚の紙にカードがくっついているのみ。ごちゃごちゃしたもの一切なし!

さて、さっそく家賃を振り込もうかと。


2011年11月30日水曜日

念願の、



GLS Bankにて銀行口座を開設した。
この銀行はドイツの大手銀行のように身近に支店はないので、普通窓口に行って30分程度でつくれるはずの銀行口座を、私の場合は数週間かかっていたので、最後は自分が本店に乗り込んだ。

GLS Bankの場合、前述のように支店がその辺にないが、Postと提携しているので、Postで口座開設の手続きを踏むことができる。本人確認を行った後、本来ならすぐできるはずなのに音沙汰がないので、電話したりメールを送ったりしたが、その対応が悪いわけではないけど、興味があったこともあり、結局本店のあるBochumに休みを取って向かった。

残念ながらあまりお金の入ってくる生活をしていないが、そんな自分の余り金でないお金でも、社会がよい方向を向くために使われて欲しいと切に思うので、ここに口座を持つことは、ドイツで生活をする上で1割を占めるくらい重要だった。自分が口座を持つ銀行の本店に行くことは非常に価値のあることだった。なぜ手続きが滞っていたかというと、それは恐らく、名前と名字を取り違えられるとか(一度手紙が届いているのに)、割と残念な理由で、もしくはPostのミスかなにか(これは実際あまりない)だったようだ。本店に行き、来た理由を説明し、自分の名前を紙に書いて、こっちが名字だからと付け加えて言ったのに、私を担当してくれる紳士は、私のデータが見つからなかったと最初に告げた。それだけ、私は未知の存在なのだ。だからこうしてするっとことが進まないことに全く嫌悪感は感じない。

この担当してくれた紳士は、さくっと口座をつくり、オンラインバンキングで必要な初期のパスワード変更&設定や、振込の際、smsで携帯に暗証番号が送られてくるなど、パソコンを前にして丁寧に説明してくれた。ちなみに彼は今まで仕事柄色んな国の人のパスポートを手にしてきたそうだが、日本人は初めてらしい。よく考えたら不思議だよね、と私もこんなに人口の多い日本人が何故彼と(GLS Bank)と関わらなかったのだろうと、同じく不思議かつ光栄に思った。そんな手続きの最中、君はドイツで生まれたの?だったか、もう長くいるの?だったか、忘れるほど驚く問いを受け、それに私は最初に一瞬間を置いて、いや全然そうではない、と答えたことを覚えている。そして、大学の時に1年Freiburgにいて、あ、その前にも何回か来たけど・・と続けた。雰囲気だけでもそこまで出せるようになったのかと、その類いの質問の中では抜群によかったので、とても嬉しかった。ただそれが毎回になるようにしたい。ここ、ルール地方の人々は、Freiburgがドイツ南部のどちらの州に属しているかさえわからない人がいるが、やはりGLS Bankの人間、彼は自称Freiburgをよく知っているよ、と言った。さすがである。

HPに12月2日は行事のため、Bochum以外の支店、Freiburg、Berlin、Frankfurtなどの支店をすべて閉めると掲載してあった。その日には本店から歩いてすぐ、最寄りの地下鉄の駅名でもある"Schauspielhaus"(劇場)にて"集い"があるらしい。年末だしな・・ちょうど目印に方向を確かめてきたものが、実際にどう利用されているのか知れてというか、GLS Bankのことが知れて嬉しかった。


一枚目の写真は中央駅、二枚目がその劇場。
Bochumは今回初めて行ったが、中央駅から出た目の前の印象が、例にもれず"四角い"。
ここもルール工業地帯の一都市だった。でも銀行から中央駅への帰り道、ドレッドヘアの女性や、Freitagバッグ2個持ちの男性などを見て、口座ができたのも相まって気分がよくなる。ドレッドヘアは私のドイツの原風景、FreiburgはVaubanにすぐに運んでくれる。


2011年11月3日木曜日

美しい紅葉



私は戻ってくることができた。
会いたい人たちがいるところへ。

バスの窓から見えたのは、本当に綺麗な木々の紅葉。
去年の今頃は知らなかった道を、朝の澄んだ空気を、噛み締めて、
誰かに会いに行く。

ただ、そんなことができるのは週末のみ。
平日は理想に反する現実を突きつけられ、ただ、進むのみ。
自分がしてきた決断を後悔したことは一度もないけれど、
怯むこと、ゆれること、多々アリ。
でも今を生きて、通過していかないと、当たり前だけど先に行けない。

葉が雨で落ちてしまう前に、もう一度そこを歩きたい。


2011年10月25日火曜日

平和村Praktikum回想記① うさぎによく会った



ふと思い返せば、やっぱりPraktikum中、私はよくうさぎに会った。
どういうことかと言うと、本物の野生のうさぎも見たけれど、それ以上にうさぎネタが多く舞い込んで来たのだ。

最初のうさぎは、「ミナ ペルホネン」長江青の日記経由で知った、北海道の写真家の人と一緒に住んでいた"ウーロン"の話。この"ウーロン"といううさぎは、New York Timesに載ったこともある有名なうさぎで、何故に掲載されたかというと、頭の上に何かを乗せてキープする頭芸ができたから。そしてこの写真家の方、中学生以来うさぎを飼い続けているといううさぎエキスパート。
私にすっと入ってきたのは、この方が言った「犬や猫とは違う、うさぎを飼うときの距離感が自分には合っている」という趣旨の文。これにものすごく確信を持って大共感した私。犬や猫は好きだけど、そこまでお近づきになれない感があったためか、犬猫という二択から逃れることができたからか、ベルリンで泊めてもらったお家にうさぎが2羽いたからか、本当にしっくりきた。ここからやたら、うさぎうさぎと言う日々が続く。

そして12月、予定から2ヶ月遅れて友達が会いに来てくれた。ミラクルに偶然なことに、彼女も私と同じ時期から、別の理由でうさぎ熱が高まっていた。だから「うさぎの歌」を作った。私作詞、彼女作曲。最高に楽しかったな。

翌月、母から封筒が届く。「ドイツは自己主張をしなければいけないと思うけど、たまにはうさぎの様に大きな聞き耳を持って、頑張ってね」と。うさぎの和小物付き。それを証明書にくくった。職務中はいつも首から下げ、それはちょうど子供たちの視界に入りやすい位置に来るので、やたら触られ、結局最終的に相当汚れが付き、糸がちぎれてしまい処分をした。ある子は、うさぎの盛り上がる顔面の中に、「ヨーグルトが入っている」と見ただけで言っていた。白い綿だろうから、あながち間違っていないだろうけど。

そしてこの本、"Weißt du eigentlich, wie lieb ich dich hab?: 知ってる?ぼくがどれだけ君のことを好きか"(勝手に訳)。
ちょうど1ヶ月前、日本に帰る3日前、私はドレスデンに入院している、とても好きな子供のお見舞いに行った。14時に病院に着き、帰る20時までべったり一緒にいた。歯磨きをし、パジャマに着替え、日課のアニメを見終わり、ベットに転がりながら彼は、「この本読んで」とおもむろにこの小さな本を私に差し出した。登場するのは小さなうさぎと大きなうさぎ。彼らがお互いにお互いをどれだけ好きか、どれだけ大きなもの、長いもの、遠いものに例えて言い表せるかで表現し合うのだ。
例えば、小さいうさぎが、「ぼくは君のことを、あの地平線の彼方に見える木くらいまで、好きだよ」と言えば、大きいうさぎは、「ぼくは君のことを、あの雲の上に見える月くらいまで、好きだよ」といった具合に。これを彼に読んでいるときの、心の温まりっぷりといえば、もう。今、これをまた読んであげたくて仕方がない。
※ちなみに上記は実際の本の内容ではなく、こういう感じと説明したいだけなのであしからず。

今後もうさぎネタが増えていくか、乞うご期待。


2011年10月21日金曜日

東京、墓参り



先週の金曜日から4泊5日、東京、墓参りの旅。
小さい頃から訪れている親戚宅には、去年亡くなってしまった伯父さんが欠けていると、どうしても思ってしまう。
2月にパリで会った以来の伯母さんには、両親が帰った日曜以降も、ほんとによくしてもらった。それは居心地のいい旅館のよう。

土曜日墓に参ると、何やらうちの墓辺りに見た顔が。偶然別の親戚も墓を訪れていたのだ。若夫婦は現在福岡在住で、私たちも京都から来ているし、30分ずれると会えていなかったかもしれないので、これはおじいちゃんが合わせてくれたのだと、皆で感心する。岡本太郎の墓の様子を見に行きたくなるが、そんなミーハーなことをする時間はなく。
この日の晩は、私は予定を入れてしまっていたので外出したが、うちの弟やはとこ夫婦×2も集い、そんな楽しい宴を私はまたもや逃してしまった。次回は意地でも気をつけ、参加しなければいけない。

吉祥寺、六本木でお茶、自由が丘でお好み焼き、新宿でお茶、新大久保で韓国料理、八王子でお茶、銀座で台湾料理と、毎回多くても2人ずつ会い、初めて2人でゆっくりしゃべる人、5年振りに会う人など、たくさん再会ができた。皆さまどうもありがとう。美味しかった。ご馳走さまでした。7組9名と会っても、かぶらない場所と料理。やはり都会は多様だ。六本木と自由が丘メンバとお店は定番になりつつあると思い、八王子の期待度ゼロからの、あのJR八王子と京王の間の意外なカフェ空間は一番のいい衝撃だった。そして福島の話を聞けてよかった。

親戚宅で頂いた和菓子、石山寺 月あかり は、とっても綺麗で持ちやすく、食感がよく、気に入ってしまった。
帰りの新幹線に乗る前、以前していたようにリゾットを食べ、フィナンシェとコーヒーを買い、ホームに向かった。
ただしコーヒーは、缶のもので。



2011年10月19日水曜日

京都、私の散歩道



今日は、10月下旬ということを考えれば怖いけど、気持ちのいい晴天だった。
しらさぎさんも石のうえ。
出町柳から河原町今出川の歯医者へ行く。


歯医者でダメージを受けた後は河原町をそのまま南下、府立医大の工事が終わり、
きれいになったなーと思いつつも、"ホテルオークラ"の文字に疑問が浮かぶ。
両側に見慣れたお店があることを確認しつつ、荒神橋の上に"大"の字を見て、元バイト先のパン屋さんに入る。
混む時は一瞬にしていっぱいになる店内、変わらないお店と皆さまの顔は会ったけど、幼稚園の年中さんになった彼は不在。
また来る約束をして南下。
私の先代の彼のベビーシッターだった友達がタイに嫁いだ話をしたからか、河原町丸太町"パクチー"に吸い込まれる。
三条にもできたみたいで?一人客も入りやすい賑わう店内。あ、またソロ活動してしまった。


丸太町まで来ると、寺町を南下する。
この道路幅、歩道幅、木の密集度、人のまばらさがとても心地いい。


店のお姉さんも昨日まで東京だった。私が元気で恵比寿に行っていれば、そこでも会ったかもしれない可能性を知る。
二条まで来たら、今度は木屋町を南下。
ホテルフジタが取り壊されたこと、ソニアリキエルがなくなったことが私にとっての大きな景観の変化かも。


定番。


パン屋さんの10周年記念で作られた陶器のお皿をもらいました。
もち麦のラスクは相変わらず美味しいけれど、歯の仮の詰め物が危うかった・・・

2011年10月8日土曜日

アサヒビールが飲めない



この週末は町内会のお祭り。実家はこの町内会に1年前に引っ越してきて、役にも当たり、まともに参加するのは今年が初めて。
引っ越しと言っても、小学校の校区を跨いだだけ、前の家にも徒歩10分ほどで着く近さ。そしてこの新しい20件ほどの住宅街のほとんどの人が、うちと同じように近所から引っ越してきたというベビーブーム世帯。少子化を微塵も感じないまわりご近所です。

前の町内会もかなり大きかったけど、神輿は所有していなかった。今住んでいる町内の方が歴史は長く、住民層(思想)も異なり、なんだか活気がすごい。うちの父はフランクフルト(ソーセージ)担当で、朝から意気込んでいたけど、私もふらっと夕方立ち寄ったら、焼く羽目になってしまった。比較しちゃいけないけど、サイズや焼く工程、食べるまでが、なんだかしんきくさくてみみっちいなと思いながらも、わりかし楽しんで焼いてしまった。梅田のクリスマスマーケットで焼くのではなく、売るのはしたけど、まさか自分がこんなもの焼くとは思わず。でも回りのおばちゃんやおじちゃん、皆もちろん初対面だけど、なんだかもう皆板について楽しんでやっているのがよかった。こういうことができる町内会なんてなかなかないでしょう。

父の休憩が終わったので、ようやく交代、喉が乾いたのでビール。200円でビールの当日券を買い、アサヒビールの缶を手に持つ。冷たい、だから持っていたキッチンペーパーを巻いて持った。飲む、でも先日大阪で飲んでグラス3分の2で危機を感じてしまったのも、同じアサヒビールだったから、本当にちびちび飲む。なんだかきつい。だから口と付けた程度にしか飲めず、帰宅。ドイツのビールだとさらっといけてしまうのに。

私が最近危惧しているのは、帰国して一ヶ月後くらいに顔面によからぬものが出てきてしまうこと。
これは前回一年いたドイツから帰ってきたときがそうだった。一番目立つ頬のあたりに、非常に気分を阻害されるものが一斉に出た。私はこれは体内の水がちょうど一ヶ月くらいかかって、入れ替わるためだと勝手に結論づけているけど、どちらの水が悪いとかそういうのではないと思うし、仕方がないのかもしれないが、あれがまた来るかと思えば、水道が出元の水分を飲むことに消極的になってしまう。きれいに引いてくれればいいのだが。

明日は神輿が出るらしい。だから今日の祭は前夜祭のようなもの。それもちら見して来ようと思います。



2011年10月7日金曜日

みずがめ座の香り


かれこれ5年前、Freiburgにいたあたりから、仲良くなる人とは誕生日が近いことが非常に多い。
特にみずがめ座ゾーン。我が家も父を除き(と言っても早生まれなので近い)、皆みずがめ座のため、心得ているというか、なんだか安心するのだろうか。ふーんと私的に好感触を感知する人は、だいたいそうだったりするので、またしてもそれを痛感する今日この頃。

今日はずっと使っていない銀行口座を解約しに行った。
最初に待ち番号を引き、それが私の用件を扱う方ではなかったので、正しい方で再度引き、ローカウンターに入った後、手続き待ちの間、また番号札を渡される。お辞儀時に、ボブの髪の毛もひゅんと一緒に元気よく風を切る感じのいいお姉さんが担当してくれたが、「番号札○番でお待ちの、△△様〜」と呼ばれた。番号札って名前の代わりに渡されるものではなかったかしら?違ったかな?番号の意味がないではないかと思ってしまった。同じ名字の人がかぶる場合のためだっただろうか。
ドイツの場合、個人のプライバシーを保護するために、番号化されたりするので、そう思ってしまった。銀行はこの一年は口座を持っていなかったのでわからないが、全然違う例をあげると、病院の病室。日本みたいに○○様とか、病室前に書いていない。部屋番号で誰がどこの部屋にいるのか、外部者は特定する。でも病室内は日本みたくカーテンや仕切りがないので、複数名の部屋だと情報筒抜けじゃないかという疑惑。そこはまた事情が違うのでしょうな。今度聞いてみよう。

錦を通ったら、かりかりじゃないのにカリカリ博士という店名のたこ焼き屋さんで、6コ180円のたこ焼きを買ってしまった。以前食べたことがあったので、知ってはいましたが。
お店はお姉さん一人で回されていて、横にある券売機で予め券を買わなければならない。お客さんが重なることはあるだろうけど、長椅子を2脚置くスペースしかなく、人の流れる錦で、私が観察した限りでは、券売機のある理由がわからなかった。たこ焼きを焼くのに手はかかるだろうけど、お金を受け取る入れ物もあるし、そのための余裕も問題なくありそうだった。たこ焼きを焼くのに集中して、計算を間違うなんてことを未然に防ぐためなのか、なんなのか。あの紙と電気と機械はいらない気がしてしまった。そういやドイツで食券を売る券売機って見たことがないかも。

そんな疑問を感じた日でした。



2011年10月6日木曜日

大阪、天満


本日はちょっと大阪へ。
最初に梅田界隈。ちょっと立ち寄った昼休みで賑わうレストラン街が冷房で寒かった。これは節電云々というより以前、根本的にどうにかならないかな。日本、香港、ドバイと平均気温が高くなるにつれ、冷房の設定温度が低くなる。中に入って外で蓄えた熱を冷やしたい心理はわかるけど、外で余計に熱を蓄える格好をしているのは日本だと思う。

天満で1ヶ月先に平和村から帰った友人と再会する。
大勢の人混みのなか、彼女を見つけることや、あの人混みの中に2人で埋もれて行く感覚は、香港で友人にあった時の様。人混みや都会という環境に慣れない。

JR天満駅界隈は初めて。いつか花見の際、裏からみた関テレの正面を見ながらお茶。
そして楽しみにしていた彼女の元バイト先のマッサージ屋さんへ。
タイムサービスのため、1時間2500円という破格の安さと質。自覚症状のある首肩腰の疲れプラス、上腕が疲れていたことを知る。やはり子供の上げ下ろし、持ち運びは上腕を使います。
その後、ティータイムを楽しみつつ、写真動画鑑賞。子供のそれはいつ見ても和むけど、帰ってきた今思うのは、ちょっとそこから離れたいと思う、やり切った感。でもそう思えるほどやれてよかった。イベントの多かった9月の報告を色々し、ちょっと落ち着く。やーほんとこのタイミングで会えてよかった。
そして知り合いが開店したというお店で晩ご飯。帰国後初めてのおビールが、ちょっときつかったのか、グラス3分の1で真っ赤になってしまった。疲れからか、マッサージ後の血行良好時だったからか、3分の2飲んだ時点で、水を欲す程の危機を感じてしまった。帰る前、ビール、テキーラなど普通に飲んでいたので、これは日本のビールのせいかもしれない。以前も同じようなことがあった。今日は次飲むのにちょっと躊躇してしまうような感じだった。ビールはドイツが旨い。

非常に名残惜しくも解散。同じ宿舎に半年住んでいたので、なんだか時間的制約に縛られるのが不思議でした。
今度は是非京都、宇治で。


2011年10月4日火曜日

離職証明が見つからない


それを探すためだけに、起きているわけじゃないです。
今日はやることがあるだけ。今日はきっと寝られたはずだと思う、午前3時半。
明日は、あ、今日は母と予定があるけど、あと1時間半ほどは起きていたい。帰国して思った感覚がまだフレッシュなうちに、忘れないように、忘れてもいいことだけど、ちょっとぼやっと書いておこうかと。

女の人が細い。なんか病的に見える。無理して痩せているように見えてしまうけど、単純に細くありたい願望とその細さの合格基準が違うのだろう。道を歩いていて見る人、テレビで見る人、手とかアゴのラインとか、思わず、気持ちわるって言ってしまう細さです。

テレビで見た中国の映像が、日本と変わらないと感じた。それは上海かどこかの都市だったと思うけど、これまでだと識別できる何かがあったはずだったけど、普通に日本かと思った。単純に、黒い頭を一挙に見るのがひさしぶりなだけか、中国の生活が日本と似てきたのか。

お金ががんがん出て行く。別にまだ家族以外の誰とも、ご飯に行ったりしていないけど、単純に家の近辺で、用事をしているだけで、やたらと支出させられる。今の超円高も相まって、物価が高いなということ、お金を使う機会が多いなということ、さらにお金を入れようと思えば、きっと入ってくること。相当お金を使わない生活をしていたためか、余計にそう感じる。お金ががんがん回っていると。

また最初の話に戻るけど、スカートをはいている人が多いとか、(合っていない靴を履いているせいで)姿勢がよくない人が多いとか、そんな視界に入ってくることを思う。また人と人との空気のような接し方。人認識せず、何事も過ぎて行くような気がする。特にあんな毎日がんがん叫ぶような所から来たら、余計にそう思うのかもしれない。

ドイツもそろそろぐっと冷えてくるようだけど、その前の暖かい気持ちのいいお天気の時に帰ってきてしまった私は、こっちが既に涼しかったから、非常にそれが恋しかった。もう今は寒いのだろうけど。こちらの方が、断然暑いだろうと踏んでいたからか、実際私が帰ってくる1週間前とは比べて、かなり秋らしくなったとかで、最初は垂れていた鼻ももう止まった。このひんやりとした感は気持ちがいいけど、私が嗅ぎたいのは芝生の匂い。

昨日テレビを見ていて、午後7時半前、四国徳島で震度3があったかと思えば、4、5分後に、福島浜通りでまた震度3。もう恐すぎる。一緒の飛行機で来たドイツ人の学生なんて、ほんとよく来たなと思う。




2011年10月3日月曜日

キンモクセイの香る初秋


帰国5日目。早朝、眠れない。1時半には寝る体制に入ったのに駄目。
週末はさておき、月曜日というまた1週間が始まるサイクルに入ったのに、いまだに安定した睡眠の仕方ができない。

帰国5日目。そろそろいい加減に頭を冷やしたいと思う。
私が眠れない原因は主に2つ。ビザと単に後は女々しい理由。でも私にとってはかなりやっかい。この2つの大問題には帰国前最後の週末から頭の大部分を超過して占められ、言い訳をするとそのためにかなり荷造り&出発はバタバタだった。

果たしてどうしたものか。ビザはもうやるしかないとして、あとを占める頭のぐちゃぐちゃを収めてくれるのは、やはり友達と会って話すとかして、第3者的意見が介入されれば、何か自分も冷静になれる気が。一人で悶々としていると、後々きっと馬鹿らしくなるのだろう。

帰国3日目にして、完全にドイツホームシック。もう完全に日本から心が離れてしまったように思い、早く帰りたくてたまらない。
例えば昨日嫌だなと思ったのは、帰ってきて初めてスタバに行ってみて、単純にドリンクと大きさを言って注文したら、使い捨て紙コップで出てくるところ。そして思い出した。ここではマグで店内で飲みたいことを、紙コップにコーヒーが注がれてしまう前に、自己申告しなければならないことを。げんなり。なんでテイクアウトじゃないのに、紙コップなんかで飲まなければいけないのだろう。美味しくないじゃない。紙コップなんて、どうしてもカフェインが欲しいとき、自販機で注文するとき以外は、登場の機会が全くなくていいはずだと思うのが私です。
食洗器の使用、設置条件が土壌と合わないためなのか、なんなのか、和食器じゃないんだから、物的には全然食洗器に入れちゃって問題ないでしょう。こんな私は結局、お客様センター行きなのだ。
こんな風に憤るネタがどんどん増えて行くでしょう。

話は変わって、食べ物。
帰ってきて何が食べたいかと聞かれると、頭に浮かぶのはがんもや湯葉ひろうすなど、おばんざい。
ほんと家で食べられるやさしい味のお汁で十分なのです。が、いざ冷蔵庫と対峙すると、自分が何かを探していることに気付く。それは冷凍ビビンパ。私が唯一、肉入りの食べ物で進んで食してしまう食べ物。またこれは冷蔵庫じゃないけど、辛ラーメン。こちらはデュッセルドルフなどの日本食料品店で、私が唯一自分のために買ってしまうもの。地産地消をしたいので、そんな遠くから負荷をかけて飛んでくるようなものを食べたくはないのですが、これだけは買ってしまう。決して辛党ではなく、韓国料理全般大好きな人ではないのですが、どうも欲してしまうのが、これら韓国の食べ物。一昨日昨日でこの両方にあり着き、ひとまず満たされました。

また、不思議と恋しくなってしまうのが、あんなに嫌だった出張生活中のコンビニ食。種類は限られるけどカップ麺など。
嫌とは言えない勤め人が自分が好きな物を選ぶことができるのは、むしろそこだけだったからかもしれない。昨日月曜日は私のホテル生活を助けてくれた、しゃべくり007の2時間放送があった。ほんと、ずーんとしてしまう週の初めを、どこかの東横インでひとりでずーんとなってしまう私を救ってくれたのは、あの掛け合いです。

そんなことを書いていると、既に外はゆっくり明るくなってきている。
どうか、また愚痴をこぼすことがあると思うけど、有意義な滞在となりますように。





2011年9月16日金曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(8)



なんだかイベントが多く慌ただしかった今日この頃、気付けば本日で早番の勤務は終了でした。
残りは遅番6回。それで終了なんて、そんな気がしないけど、ここで区切りをつけないとしんどいような。

最後の早番、前日に続き若干寝坊をしてしまった。
知らぬ間に結構な遅刻魔になってしまったが、それも何故かあまり嫌な顔をされないからか、改善しなかった。特に7月半ばから3週間ちょいの休暇が開けた後がひどかった。それは自慢すべきことではないが、6時36分に起きても、6時45分には勤務開始できる、私の準備の早さと職場の近さ。昨日は気が付いて起きたのが40分代と過去最高に遅かったけど、行ったら私も早番だと、誰も気付いていなかったため気が抜けた。今日は申し訳ないことに起こしに来てもらってしまったが、昨日の早番と同じ正規職員Gは、笑い飛ばしてくれた。それで普通の心持ちで始業できるけど、遅刻常習者にも温かい目を向けられるのは割と謎。

お昼ご飯も済み、子供たちが外に遊びに行き、部屋の中の掃除や服の整理をしていると、8月から働き始めた新しい正規職員Mが2人の子供を連れて中に入ってきた。2人の手にはコンクリートがまみれ付いている。すぐさまそれを落とす作業に取りかかるが、一瞬素人が落とすのは無理なんじゃないかとか、そんな危機感がよぎる程、時間がかかる。それにしても何故部分的に補修したコンクリートがまだ固まっていないのに、そんな所で子供を遊ばせてもよいのか、そして気付くのが遅いんじゃないのかと、もう一人のPraktikant: Vと必死に汚れを落としながら、その有り得ない様を口々にこぼす。しかも一番小さな1歳半のEちゃんも。口に入れたりする危険性は特に考えないのか。その子の服は総取り替えで、お尻歩きのためズボンはもう無理と判断し処分をした。悪戦苦闘していると、どうにか爪の中以外は何とか取れたが、そのことを他の正規職員Nに話しても、まああるわな。という程度で、最後にしてなんだかやはり感覚が違うなと痛感したシフトでした。

援助飛行が終わった後、8日は子供40人との遠足、そしてその日から従姉妹が12日まで滞在、その間10日には平和村の一番大きなお祭り、昨日15日は年に一度の子供と職員全員での遠足と非常にイベント目白押しでした。これらイベントの日に割と早番に入っていたため、今日が久しぶりの日常の早番だと思ったらこれで最後、驚きです。でも休みの日ごとにイベントに入っていたPraktikantや正規職員もいたので、彼らは本当にみっちりフル活動していたなと思います。

そろそろ荷詰めを始めようとスーツケースを自分の部屋に移動させてきました。
さて、はかどって作業ができるのか。


写真は昨日行った遠足: BottropにあるSchloß Beckの観覧車より。

2011年9月3日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(7)



昨日、アフガニスタンに帰る子供たちの最終組が帰国し、今回の援助飛行が終了しました。
昨日の早番のシフトはえげつなく、私はずっと走り回っていたので、14時の村からの出発を、今回すべての出発に立ち会って来た中、唯一見送れませんでした。帰国した9人の子供の中には、2人、2月に帰国し検査・コントロールのため再渡独した子がいました。半年間の故郷での成長を少し垣間みれて、また会えたことが嬉しかったです。

その前日、9月1日はチャリティーウォークが行われ、子供たちと村から本部まで、往復4kmの道のりを歩きました。これと平行して、参加者がスポンサーを募り、寄付金を集めるチャリティーウォークも開催され、私も参加したかったけど、子供たちを戻ってきたときには最終受付時間が終わっていました・・・。詳しくはこちら 9月、私のPraktikumの最終月にして、催しが一番多い。今日は珍しく30度近い気温ですが、続くイベントの日もいいお天気だといいな。

8月31日の朝、半年間Praktikumを同じ小さい子の部でして、同じ宿舎だったHさんが日本に帰国しました。彼女の素晴らしきマッサージ技術と謎の語彙がちらばるトークにかなり癒されました。そんなHさんのレゴブロックを使ったDANKEが、この日の朝、早番に行くと遊び部屋に!同じ早番だった職員Cは、子供が近づこうものなら吠えて、遠ざけていましたが、遅番の時間には解体されてしまいました。子供たちもこれに刺激されて、何かまた新たなものを作ってくれるといいな。


2011年8月27日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(6)


相変わらず今日も寒く、4月5月を除いて、ヒートテックを愛用する日々が援助飛行と共に続いています。
今朝、8時半に10人の子供を乗せたワゴンがフランクフルトまで向かい、その子たちを乗せた機体が後30分ほどでタジキスタンに向けて出発するところです。9月2日にアフガニスタンに帰国する少数の子供たちを除いて、すべての国の子供たちが帰国していきました。

タジキスタンへは、小さい子供の部からはいないけど、色々と問題を起こした少年が、3月くらいから罰として小さい子供の部で生活していたので、私的にはその子を中心に見送りました。小さい子供の部ではほとんどないけれど、大きい男の子や女の子の部では、何か良くないことをした子供に罰が与えられることがあります。例えば食堂で皆とは違う所に食べる罰とか、一番大きい子供が何か悪さをした場合は、通常その子供の部屋がある一番上の3階から下り、1階で寝る罰とか。その中で一番の重い罪が、小さい子供の部に生活の場を移し、全面的に職員を手伝う罰です。私が知っているだけでもこの少年を入れて3人が、この罰になり共にたくさんの時間を過ごしてきました。

罰を受ける理由は色々あるけれど、例えば何か物を壊すとか、子供同士の喧嘩の末、相手の子を負傷させるとか、物を盗むとか。故意的に救急車を呼ぶ非常ベルを押すなど、賃金的な代償が大きい場合は、帰国時に子供が持ち帰れる鞄(入院時に病院職員から貰ったものや、服が入っている)や、母国での生活に戻ることを目的として送られるお金(基本40€)が貰えなくなります。
まもなくドイツを発つこの少年の場合、一度は鞄もお金も失ったけど、その素晴らしい手伝いっぷりで、再びそれをほぼ取り戻すことができました。むしろ私はちょっと報酬こそあげたいくらいのいい働きぶりだった。たまに口が過ぎることもあるけど、頭もよく回り、その年にしては本当によく動ける少年だった。この子の先々代も、同じようなたちだったけど、悪い方向に知恵が回る子は良い方向にも同様で、要するに非常に器用で機転も利く。退屈な生活の中でそこから逃れようと頭が働くうちに、この子も小さい子供の部に来てしまったのですが、最初何日かを除いて、まんざらでもなく、ある意味、特別なポストを楽しんでいるようでした。本当に、今日以降、戻ってきてほしいと思うことが度々あるでしょう。

昨日の夜は今回最後の新しい子供たちが到着しました。
アフガニスタンから2グループ目の弱40名がフランクフルトに到着し、うち20名が村に20時に到着しました。それ以外の子供たちは空港から病院に直接搬送されました。
私は昨日遅番で、小さい子供たちは遅くても20時にはほぼ寝静まるので、応援で新しい子供たちの受け入れに行ってきました。まず最初に子供たちをシャワーし、その際、目で確認できる症状を書き出し、服を着せます。バスから到着した子供たちは約2、3週間過ごすことになる隔離棟に案内され、それぞれの部屋に待機させられます。私はその部屋からシャワールームに子供を案内し、シャワーが終わった子供にパジャマ(夜なので)を着せ、また部屋に戻す係。通常この2、3倍の人数が来ますが、今回の援助飛行は定期便での決行のため、一度の到着人数が分散し、受け入れ側としてはいつもの超カオスな状態を回避することができました。とても順調に全員の子供が終了。リハビリのチームも到着し、子供たちが付けている包帯等も清潔なものに替えられました。

この時だけ、子供たちが来た国の状態を目で見ることができます。
援助飛行チームによれば、子供たちは一番いい服を来て、親や親戚から送り出されると聞きますが、シャワー終了後、子供たちの着て来た服を整理していると、その衛生状態がよくないことを、直に知ることができます。この服はどれだけの間、洗濯されていないのか。また同様に、子供たち自身も、例えば足の裏を白いタオルで拭けば黒くなるほど、身体を私たちのように日常的に清潔に保つことが困難であることがわかります。子供たちを覆っているのは、砂やほこり。以前平和村に来ていた子供たちは、前回渡された松葉杖や、脚の長さの差をうめるための底上げされた靴などを持ってきますが、その使用、消耗状態からも伺い知ることができます。それと同時に2回目以上となる子供たちとの再会は、お互いに笑顔をもたらします。

彼らが可能な限り早く帰国し、その帰国する土地が平和に暮らせる土地になることを、願わずにはいられない瞬間です。


2011年8月20日土曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(5)


現在Einsatzまっただ中。
アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、アルメニア、グルジアへの援助飛行がどんどん遂行されていきます。
8月14日にアルメニアへ3人の子供が帰国したのを皮切りに、昨日は一番大勢のアフガニスタンの子供が約50人帰国しました。既にアルメニア、グルジア、ウズベキスタンから新しい子供たちが到着し、今日はタジキスタンからの便を待っているところです。
本来予定なら、17日にこれら全ての国の新しい子供たちがチャーター機で到着し、20日に治療を終えた子供が帰国するはずだった。それが一ヶ国ずつなので、一度期のカオスは避けられるけど、なんとも慌ただしい。

例えば一昨日、昨日帰国した子供たちの名前が、昼食の後食堂で発表されたけど、その後は恒例の写真撮影。今まで私が見て来た過去3回は、皆家に帰れる喜びに溢れてその流れで、いつも写真を撮る場所まで移動するけど、今回は喜びの後に涙があり、そしてまた笑顔が戻った。あんなにしんみりとした移動を見たことがなかったけど、それは四六時中一緒に過ごした大事な友達の中に帰れない子がいるから。また、いいことばかりではもちろんないけれど、毎日を一生懸命過ごして来た平和村の生活や職員、ボランティアとの別れが来るから。子供たちの涙はこちらの涙もがんがん誘ってきます。その場ではこらえるけど。
今までこの帰国前日、一番子供たちがいい顔をする日を見てきて、子供たちは皆それぞれ仲が良いけど、今回はなんだかものすごく絆が見えた。

帰国することを一応わかっている私たちの小さい子供の部からは、昨日10人が帰国。そのうちの4人、中でもちょっと小さい子供を前日、念入りにシャワーをし、爪と耳をきれいにしたけど、もう1人すべきだったことに、当日、バスに乗り込む姿を見ている時に気付いた。私はその子をアフガニスタン人ではなく、ウズベキスタン人だとずっと思っていた。かなり失敗。ちゃんと情報確認をしないといけない。

一昨日の夜、そういえばものすごい嵐だった。
窓を閉めても、何ヶ所かはその隙間から水が入ってくる、少々浸水パニックでした。
それでも子供たちが帰る時は、気持ちのいい晴天で送ってくれる。アルメニアの子供たちの時も、その数時間前までは降っていた雨が止み、青い空が見えました。

あと少し、油断はできない。というのも、アフガニスタンの子供たちが帰る2日前、帰国予定のリストに名前がある子供が、遊んでいて転倒し、足を骨折。帰国ができなくなってしましました。ちょうど同じ時、帰国予定で一番小さい子供も、別の子供に転され、おでこを地面に強打し、数針縫うことになってしまいました。この子は帰れたけど、こんなことが起きてしまっては、また半年後の援助飛行を待たなければならないかもしれない。私はこの2人と職員の運転する車で救急病院へ行ったけど、帰れなくなった子とは当日、あと少しで帰れるねと話もしていたし、痛々しくてならない。折れていると診断が下った後は、それを受け止めてか少し落ち着いていたけど・・。帰れた小さい子も、傷物にしてしまったので、それが何より悔やまれる。回りの目の多さは非常に大切です。

そんなところで、今日も遅番に行って参ります。
援助飛行について詳しくはこちら



2011年8月14日日曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(4)



送迎会の際、Praktikant全員で一曲歌ったと書いたが、これはPraktikumを始めた頃には考えられないことであった。
当時、2つあるPraktikantが住む宿舎は、完全にドイツ人とそれ以外(ほぼ日本人)と分かれていて、ドイツ人の方の荒れようも酷かったけど(単に若い)、私はその状況から感じる"日本人隔離された感"が本当に嫌だった。その後、国籍を混ぜる案が上から提案され、当時の住人にアンケートを取った結果、「混ぜる」ことになり、半年の短期滞在者と1年など長期滞在者で振り分けられることになった。・・・
今ではほんとうまく混ざっており、非常に色んなことが改善され、よくなったと思う。

こんな日本人だらけの所に来ておいてなんだが、ドイツにいて日本人で集うのも何なので、休みの日に出かけるなら、自然に一人でふらふらすることが常だった(日本にいてもほぼ同じ過ごし方)。それは私の基本形だが、以前は日本人隔離から逃れたかったことが大きかったように思う。冬、極寒だったときは出かけること自体今より少なかったけど、暖かくなってきた3月、別の宿舎に引っ越したことが大きな転機だった。これによってドイツ人のPraktikantと過ごす時間が増え、ナチュラルにドイツにいる感覚に近づいて行けたのだ。それまでのように日本人隔離された感から解き放たれ、それを感じることはなくなったが、平和村自体が大きな隔離であるなと気付いた。

それはさておき、あの状態がずっと続いていたら、例えば昨日のように日本人4人でOLGASROCKに行ったりしなかったかもしれない。そうした変化をものすごく気付く今日この頃。
今日、今回の援助飛行の第一弾、3人の子供がアルメニアに帰国しました。9月2日まで続く長丁場、色んな場面を見れたらいいなと思います。

2011年8月12日金曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(3)


昨日は月末の援助飛行で帰国する、アフガニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、グルジア、アルメニアの子供たちの送迎会があった。
なんだか、あっと言う間だった。
子供たちがダンスを披露したり、職員がBabysitter boggieを仮装して踊ったり、Praktikantも全員で一曲歌ったり・・・ いつものソーセージとパンに変わって、ピザが出され、最後は皆踊りまくって終了という流れ。
もちろん帰る国の子供たちが主役なので、アンゴラの子供たちからの出し物は控えめになるが、今回よく気付かされたのが、アンゴラの子のダンスに他の国の子供たちがものすごく感化されているということ。特に男子。でも女子はかぶれることなく、自分たちの持てるものを出していた。通じて言えるのは、特に立つことや歩くことが困難でドイツに来て、治療を続けて来た子供たちが、松葉杖なしで思いっきり踊っている姿は、いつもほんとに感動もの。

過去3回の送迎会は、毎回早番だったので、縛られることなく自由に参加できたが、今回は遅番に当たったので、業務中のパーティー。村で一番最年少の子が調子が悪く、昼ご飯を何度かに分けて吐いていたので、すごく心配でした。ぐったりしてしんどそうなので、あんな爆音のかかったところよりは、外に出したいなと思っていたけど、そうしないのがこちらの感覚。大事には至っていないので、大丈夫だと思いますが・・・

食事の後、もう皆好き放題に踊りだし、カオスな状態で、極小サイズの子供が危険に巻き込まれそうな時もあり、ひやひやしながら私も楽しんでいましたが。こんな時に気になるのはいつもアフガニスタンの大きな女の子の一角、気付いた時には皆涙を流していました。長くいる子供たちは、このあと別れが来ることを知っているので、一見楽しいパーティーですが、それが終わった後は悲しそうにしている子もいました。
インターネットや郵送手段を気軽に利用できる環境にあれば、別れてもまたすぐに繋がれる可能性がありますが、ここに来る子供たちの場合、あらゆることに耐えて毎日一日中一緒に過ごしてきた友達と別れると、再び会うことが非常に困難なため、彼女たちの悲しみは想像に絶します。
特にアフガニスタン方面とアンゴラの子供たちが別れるのは、もう一生会えない可能性の方がはるかに高いので、こちらもあの仲良かった2人が一緒にいるのをもう一度見たいと思ったりしますが、せめて、遠くに友達がいることを忘れないでいてほしいと思います。

帰国まであと10日ほど。無事に残りの村での日々を過ごしてもらいたいです。


Praktikumの終わりに見えてくるもの(2)


最近どうも腰がつらい。
休暇が明けて、少し働き始めた頃、何をするにも立っているのもつらくなり、ひたすら椅子を求めた。
その話をリハビリ部で作業療法のボランティアをされているAさんにすると、ちょっとほぐそうか?と素敵すぎる提案をしてくださった。6月頃、それは精神的な疲れからくる全身疲労がピークに達し、気になっていたタイ式マッサージ屋に駆け込んだが、あと一歩でまた足を向けてしまうところだった。
ソファーに横たわり、ちょっと腰を中心にほぐして位置を調整してもらう。すると数日は特につらさを感じることなく働けた。その後、再び今後はリハビリ部にある施術台で見てもらうと、結構左右の筋肉に差があることを指摘される。腰の右側に筋肉が少なく、右のお尻の筋肉も衰えているようだ。何より骨盤が前傾し、腹筋がないため、腰だけで何でもやってしまっていたため、疲労が溜まってしまっていたようだ。

私が働いているのは小さい子供の部署なので、7kgから15kgくらいの子供のおむつを変えるために、常におむつ台に上げ降ろす作業をする。私はそのおむつ台の高さは大丈夫だが、ドイツ基準の高さなので身長が150cmくらいの人にはかなりつらい。また、歩けない子はトイレに連れて行かなければならないし、そうした行動に問題がない子でも、バスタブから出したりするためには持ち上げる必要がある。
今その子は義足を付けていて一人で歩けるようになったが、四肢がない子がいる。本来なら小さい子供の部署ではなく、女の子の部署にいる年齢なのだが、何せ補助すべきタイミングが多いのでこちらに来た。私は何故か彼女に「トイレに行きたい」と指名されることが多く、バスルームにあるおむつ台にまず乗せ、服を脱がし、トイレに座られる(とその逆)をものすごくしていた時期があった。思えばその時、腰任せにするのではなく、もっと腹筋を使っていれば今こんなに疲労を抱えることはなかったと、付けが回ってきたように実感する。その後、彼女が義足を付けて歩行訓練を行うようになり、脇の下を両手で支え歩行を助けていたときは、かなり両腕の筋肉が鍛えられた。

最初このPraktikumを始めた時は、前職と違ってデスクワーク(たまに病院内を縦横無尽に駆け回る)ではないので、身体を動かす感がとても気持ちよく、スペアの肩が3つ欲しいとも思わなくなったが、実は重労働なので、後々疲れがでないように意識して動かないと、結構な代償にも成り得るなと今になってわかりました。
とりあえずまず腹筋を鍛えないと・・・


2011年8月8日月曜日

Praktikumの終わりに見えてくるもの(1)


今週は金曜日にならないと、最高気温が20度台にならないらしい。
窓から見える天気は暗い。まるで10月後半のようなどんより雲。

今回行われる第63回目となるアフガニスタン方面の援助飛行は、当初8月17日にアフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、グルジア、アルメニアの子供たちを乗せたチャーター機が到着し、20日に治療を終えた子供たちが帰国する予定だった。
7月25日には援助飛行チームもアフガニスタンに入り、医療援助が必要な子供たちとの渡独を毎度のごとく準備するはずだったのだが。なんと予定していたチャーター機が、運行に断りを入れてきたとのニュースが村にも届いた。
聞く所に寄れば、アフガニスタン方面の援助飛行ではタジキスタンの航空会社の機体をチャーターすることが多いそうで、今回も予定されていたのはタジキスタンのEast Airだったが、いきなりキャンセルされた。タジキスタンから来ている子供だっているのにだ。
チームは代替のチャーター機を出してくれる航空会社を当たったが、結果見つからず、今回の援助飛行はすべて定期便での運行になった。
2008年にも定期便を使用したことがあったそうだが、その時はチャーター機の値段の高騰が原因だったそうで、定期便を使ったほうが安かったとのこと。今回は一人の子供に対し、500€を支払わなければならないらしい。寄付のみで運営している団体のため、財政は常にかつかつの状態だが、余計に苦しくなることは間違いない。
改めて作成された援助飛行の予定は、17日のグルジア、アルメニアの子供たちの渡独を皮切りに、26日のアフガニスタンの子供たちの帰国と、10日間に及ぶ長丁場になる予定です。
さて、どうなるか今回の援助飛行。


2011年8月7日日曜日

誰もわかってくれない


また書きたいことが沢山あるのに書けず、頭の中のタスクが溜まる一方な日々を送っています。
ここにいるのも最後の2ヶ月。果たしてここにいるうちにどれだけ処理できるのか。

ちょっと勝手に悲観的になりますが、
別に私は秘密主義な訳でもなんでもなく、ただ人との共有の仕方がわからない、不器用な人間だと思いますが、自分が嬉しいことを初めて人に伝えた時でも、「おめでとう」と言ってもらえない時には、さすがに凹みます。自分という人間に対して不安になるし、余計に開き直りそうでもう嫌です。自分がどれだけそれを望んできたか、伝達不十分で、かつそれは一般的に見るとあまり素直に喜べるべきことではないのかもしれないけど。私が無知なだけで。
私の絶対的な味方になってくれる人は、人間でいるのか疑いたくなる。
それだけ私はどこかおかしいのか。

確かに声の出る発声もとは特徴的だと、最近子供にマネをされるのでわかるけども(小学校の時もそんなことがあった)、私だって孤軍奮闘しているだけなのです。私という人間をちゃんと理解してもらうことが、こんなに自分が苦手で難しいと思わなかった。単純に私が言葉を沢山発する割には、その本意を伝えられてないことが原因だと思うけど。それなのに、勝手にわかってもらえていると期待し過ぎるから。なんて痛い子なのでしょう。
私の絶対的な味方はどこかにいるのか。

例えば何か物を頂くとする。近年よく集まってきたのは、何か綴ることができる物。要するにノートや書くものなど。確かにこうしてたまにブログに書くし、それを見てくれた上でそれを贈ってくれるのは嬉しいけども、私は紙には日記を書かない。むしろネット上に置くことで、それを所有することを避けている。他の使用の仕方もあると思うけど、結局まだ日の目を見れていない。私は物を所有することに関して、非常に慎重になりたいのです。小さい頃から気難しかったのか、現金をもらったりもした。どうしてだろうか。また、一時的にとても肩入れをするものが、単純に無難だろうと読まれるのか、そういったもの。

例えば何かメッセージを頂くとする。大抵よくあるのが、私はそのまま突き進んだらいい、という趣旨の文。肯定してもらっているのは有り難いけど、私は実験台かと思う。傍から私がどうなるのか、好奇の目で見られている気になる。ただそれだけ。
これが負のスパイラルかどうかは、今のこの状況から脱しないとわからないけど、そうだといいなと思う反面、そう思うことを解決しないとまた同じ目に遭う。


先日、来年平和村勤続40周年になるベトナム出身の職員の家に呼んで頂き、お昼を御馳走になった。写真はその時のもの。

2011年7月24日日曜日

26年振りの両親の訪欧


先日7月15日から19日まで、両親が平和村に2泊、パリに2泊と欧州に来ました。
これは新婚旅行以来初めての、26年振りのことで、
フクシマ以前に奇跡的に決め、実行することができた旅行。
偶然、私の休暇の最後の5日間とも重なり、私の当初の計画が崩れたため、
全行程を共に過ごすことができました。

これは1日目、Düsseldorfの一番古い教会にて。



4日目。パリでパサージュを巡り、世界の街角に立った充実感に溢れる父。
特に憧れのショパンホテルの前ではもう。


同じく4日目。オペラ界隈のモノプリで、キャスター付きのお買い物かごに喜ぶ母。(私が持たせました)
購入したての土踏まずが歩く度に気持ちいい靴を履いて。


最後の夜は、父の姉、甥と甥のフィアンセと姪と7名で老舗大衆食堂へ。
私がバカのひとつ覚えで行きたがるムール貝の食べれるチェーン店"レオン"に行かなくてよかった。
本当は行ったんだけど、空いている席が全く落ち着けない位置で、こちらに連れて来てもらえて本当によかった。


私がでかいですが、お母さん、うまく交わしてくれました。
23時のキラキラタイム終了後のエッフェル塔をトロカデロから。
眼鏡家族です。

両親は本当に喜んでくれてよかったのだけど、私は反省する点が在り過ぎて、
思い出せば出す程、後悔の念にかられます。
これについては次回洗い出し、今回の旅行の私サイドを整理したいと思います。


2011年7月15日金曜日

語学学校終了。


本日にて、2週間の語学学校が終了。と言っても、コース自体は明日まであるので、終了したのは私だけなのだが。コース開始直前、授業料を振り込むことにも、毎日通うために必要な定期を買うことにも、ぎりぎりまで躊躇した。別の選択をすれば、これだけのお金を掛けずとも、もっと幸せで有意義な休暇が過ごせることを知っていたからだ。結局、私はそれができなかった。

その結果、1週目はその天秤から抜け出せず、不満とストレスたらたらだった。でも2週目、週末も挟んで、ようやく諦めにも入ったのか、先生がようやく課題のレベルを掴んだのか、2週目の内容が1週目からあればよかったのにと、終わった今思います。
ちなみに私が行った語学学校は、以前はDüsseldorfの大学の敷地内にあり、現在はなぜか追い出されつつも、大学との関係はDüsseldorfの他の語学学校よりは一番強いであろう学校です。ちなみに夏期だけある2週間のこのコースは350€、4週間なら600€。2週間のコースが単純に割高なのは、色々な諸経費のためだと思うけど、どのコースでも1週目は先生、生徒ともに手探りの状態だから、その後があと1週間の2週間コースの場合、逆に割安にしてほしいと思った。さらにちなみに言えば、この学校、コース最終日のテスト(任意)に別途料金を取ったり、テキストを買わせたりする。テストに関しては申し込む際に御触書があったけど、テキストに関してはそんな記述はなく、空気に物を言わせて買わせている感じがした。かつ私たちのクラスの参加者6名は、間違ったテキストを買わされていたため、この語学学校と提携している書店まで行き交換しなければならなかった。それもクラス分けテストの結果の評価方法が、2週間コースは他と違ったいたため、生じた問題だと思われる。まあこんなこと、日常茶飯事に起こるのが、“思いやり”が仕事上に発生しないドイツなのだが。

私たちのクラスは皆学ぶ意欲のとてもある、いいクラスだった。というのも、大学の休みなどを利用してくる学生の場合、それを名目として来ていることもあるからだ。さすがにクラスのレベルにも因るけれど。あと語学学校の質にももちろん因る。それに伴った生徒が付いてくるからだ。これに関してはこの学校は申し分なかったと前述の通りもちろん言える。
クラスの参加者の6人中2人がなんと医者だった。サンクトペテルブルク出身のロシア人の産婦人科医と、ルーマニアの眼科医。それにモスクワの現役のロシア人学生が3人と私。ちなみに3人の先生がこのクラスを受け持ってくれたが、生徒も含めて皆女性だった。2週間というコースを持つ語学学校はあまりないと思うが、働いている人にとっては2週間なら休みを取れる可能性がある故の、社会人メンバーだったのだろう。
でもその社会人の2人が医者だったのが興味深い。2人からと先生からの話によれば、ドイツ人的には、ドイツでは医者であっても以前程の収入が得られないため、より高収入を稼ぎに例えばアメリカなどに流出しているらしい。そのため、医者不足が発生し、その求人を見て、彼女たちのようにドイツで医師として働きたいと思う人がいるようだ。そう最初から名言していたルーマニア人のお医者さんは、ルーマニアではある程度以上の治療が出来ず、自分の医療技術も向上しないため、と続けていたが、サンクトペテルブルグのお医者さんは、休暇を楽しみに来たと言っていた。が、そこは産婦人科医ならではの悩みがあったようで、本当はドイツで医師をしたい気持ちはあるが、ロシアでは産婦人科医が行わない分野(私の理解が正しければ美容形成の分野)をドイツではしなければならないらしく、彼女はそれはしたくないということが、迷っている一番の理由のようだった。
平和村の話をすると、特にルーマニアのお医者さんは、ルーマニアからも子供は来たことがある?と興味を持ってくれ、知り合いの医師を通じて、生後2ヶ月で目の癌の子供がドイツで手術を受けたことを話してくれた。出来たら明後日行われる、年2回平和村が一般公開されるお祭りにと誘ったが、2人とも残念ながら都合がつかなかった。私はロシア人とルーマニア人と知り合いになるのが初めてだったし、他のメンバーも何より皆素敵な女性たちだったので、お知り合いになれたことはとてもよかった。誰かとお知り合いになることも大事だけど、自分のための時間だったのに、それが達成できなかったので、これは後々また自分に返ってくるでしょう。とりあえず、明日は両親が来るので、それを楽しみにしたいと思います。


写真はDüssel川。Düsseldorfの起こりとなった年が、橋にあしらわれたモニュメントの中に隠れています。
さぁ何年でしょう。

2011年7月10日日曜日

平和村がルール工業地帯に位置する利点


(画像はWikipediaから拝借しました)

このドイツ地図の西部、高速自動車国道:アウトバーンの路線番号が振られた青いマークが密集している地域の真ん中に、平和村はあります。密集している辺り全域がルール工業地帯であるため、おびただしい数のアウトバーンが建設されました。ちなみに北部中央のマークが集中している所がHamburg、北東部がBerlin、ルール工業地帯より少し南西にずれた所がFrankfurt、その下にMannheim、南東部がMünchenです。
年に4回、アンゴラから、アフガニスタン方面から到着するチャーター機がDüsseldorf空港に到着した後、毎回100名弱の子供の半数が、ドイツ赤十字社の救急車によって、ドイツ全土に搬送されます。自動車から排出されるCO2を考えると、それが鉄道だったらどんなにいいだろうと思うのですが、どんな病気を持っているかわからない子供を公共交通手段に乗せるわけにもいかず、重病をかかえた子供にかかる負担や、付き添う人のことを考えると、それには車の方が適していると言わざるを得なくなります。

ここの地方に住む人は、自家用車に乗ることが当たり前で、鉄道より車移動を好む人がとても多い。乗り換えが嫌とかそんな理由で、がんがんCO2を出す人たちが、ここには住んでいるのです。人口5、60万規模の街がいくつもある、人口密集地帯なので、移動手段の選択肢が多くあっていいのかもしれないけど、"アウトバーン天国"とも言われるほど、ここに住む人たちの車との親密関係はぞっとしてしまうほど深い。都市間の移動も頻繁に行われる、そんな土地柄です。

平和村に通勤する正規職員も、ほぼ皆、車通勤。場所柄、それは仕方がないのかもしれない。平和村では登録ボランティアの方が、子供を病院まで届ける運転手をしてくださる場合がよくあるが、例えばかなりここから遠い場所、HamburgとかMünchenだと、委託会社からの運転手が担当する。隣近所の街だと、登録ボランティアの方が送り届けてくださったりする。以前子供が再入院のためMaizの病院に行く予定があり、その子の出発の準備をしていたら、迎えに来たのは登録ボランティアの品のいいおばさんだった。この人が南に250kmも車を飛ばすのかと思うと驚いた。私が車を運転しないからそう思うだけかもしれないが。私はkm的感覚がないので調べてみたら、京都から浜松とちょっとその先くらいまでの距離。京都で育ったからそう思うだけかもしれないが、日本だったら主婦が子供を連れて、そんな距離を車で移動するのは想像できない。でもそんなアウトバーン網に、平和村の子供たちは支えられているのです。

でも私は働く車ならまだしも、子供が車に対して憧れを持つきっかけが沢山あることを、全く良くは思いません。子供たちに医療的援助しかしない(それ以外をする余裕がない、かつ余裕をつくらない)平和村では、それに対する教育なんてされるはずもなく、その点を私は残念に思います。"せっかくドイツに来ているのに"と。
ちなみにかつて私がいたFreiburgは、地図の一番左下から2番目の、大きめの青いマークがあるところです。通っているのは一本のみ。このアウトバーンの路線図だけ見ても、暮らしが違うことは容易に想像できます。私にとっては、いるだけでストレスになるか、幸せになるかくらいに違います。Oberhausen以外に住んでいる人からも、この街についていい意見を聞いたことがありませんが、平和村が設立されたことと、市や市営バスが積極的に協力してくれていることは、良いことに違いないと思います。

2011年7月9日土曜日

ただいま休暇中


6月27日から7月19日まで休暇を取っています。気が付けばもう残り10日。
やりたいことが沢山あるのに、もうほんとに私が今いる環境というのは、そうしたことをさくさく片付けることに全く向かず、元の計画も倒れてしまって、一人焦り、苛々となることが多いです。書きたいこともたくさんあるのに(頭を整理する必要があるのに)、それすら追いついていない!
なぜこの期間に休暇をこんなに長く取ったかと言うと、ある語学のコースをDüsseldorfで受けたかったので。でもそのために必要な勉強を怠り、結局参加できず、7月4日より2週間だけ、普通のドイツ語のコースを取ることにしました。が、変なこだわりのある私的ドイツ語の発展を遂げいるので、もはや一般的に設けられる語学のコースというのに私は適せず、学ぶことがないわければないけど、なんだか物足りない感に、自分は一体何をしているのだろうという嫌気に襲われます。まあすべて自分が悪い。
OberhausenのDüsseldorfの往復は、帰り道が本当に苦痛。平和村は4年前に最初に来た時からわかっていたけど、本当に私からしたらもう住むにはあり得ない所に位置しています。移動に時間を取られるのも嫌だけど、去年11月に年間の休暇(1年働く人は42日間)の予定を出せと言われた時点で、考えて決めてしまったので、考えを変えることも難しかったけど、あまりいい計画ではなかったかなと思います。勉強するにしても、どこか場所を変えたほうが確実にいい。普通に生活をしている場にいると、皆に、今日は早番なの遅番なのとか聞かれ、仕事をしている場なので、全然休まらない。
それはそこまで推測していなかったけど、それでも自分が住みたい街とは真逆の、住んでいるだけでストレスが溜まるような街にいるのは、Düsseldorfまで通うことで、ここに住んでいる人たちのように生活をして、その人たちの感覚になってみたいと思ったから。またDüsseldorfという街がどんな街なのか、そこに集まってくる人というのは、どんな人なのかということにも興味があった。だからそうした決断なのだが、休暇という貴重な時間を利用してアクションをするには、いささかそれに見合わない感がある。でもこういう機会が無い限りは、そんなこともできないけども。

不満を溜めている今日この頃だけど、なんとか前に進んで行かなければいけない。
15日に両親が来るので、Oberhausenという街は観光するのに全く見合わないため、NRW州の街の中でマシなDüsseldorfを見せようと、語学学校主催の旧市街地案内に先日参加した。
街という概念自体が基本的に好きなので、待ち歩きのプロの説明や街の見せ方は興味深い。4年前までドイツ語の先生で、現在は街案内をしてDüsseldorfのシティガイド本も出している女性が担当してくれた。やはり一人でふらふらしていると行くとこに偏りが出るので、街の起こりからの説明も含めて、自分が行かないような所に連れて行ってくれるのは有り難い。1988に作成されたとても細工のある凝ったモニュメントもおもしろかったが、3つの異なる特色のある教会を見せてくれたのがよかった。
写真はそのうちのひとつ、Düsseldorfで一番美しい教会"聖アンドレアス教会"。この教会、南ドイツバロックスタイルなので、先に訪れたDüsseldorfで一番古いカトリックの教会との違いがよくわかり、何より"南"なのでとても癒された。かつて行ったノイシュバンシュタイン城からも近い、ヴィース教会の街中的規模の色なし版という感じ。一番綺麗だという教会が南のスタイルというのは、やはり南と北では建築物の作りが違い、南の装飾がしっかりとなされたそれの良さを、北の人が認めているということ。だと思っています。
南といえばバイエルンの色濃い雰囲気が思い浮かび、私の好きな南西とはまた違うと思うけど、南の暖かい装飾美に慣れた人は、北の無味な冷たさが辛くなると言われることに、私は全く当てはまる。北でも好きな街はあるけれど、NRW州、このルール工業地帯に私が向かないのは、また別の理由で、平和村がここにあることの利点と繋がる。
これに関してはまた今度。

2011年7月3日日曜日

とある日の翌日の続き


帰ってくると、この日のグッバイパーティーの主役や皆がひらすらピザと格闘していた。
私もトマトソースをレシピに添って作り、最終的には2箇所に分かれているPraktikantの宿舎のオーブンをフル活用して、手のひらサイズのピザをひたすら焼いた。その間私がたまに作る、りんごの焼き菓子的なものも作ったりして、結局20時開始の予定が、食べ物がすべて出来上がったのが21時でした。
パーティーは平和村敷地内の食堂のある建物の上部。この部屋は会議やセミナー、パーティーなどに使われます。手分けしてセッティングしてくれていた子の仕事は、おおさすがと言う感じ、ものすごく時間がなかったのに、元レストラン勤務なだけあって綺麗に完成していました。20時と聞いたゲストの皆さまが、すでに持ち寄りの食べ物をテーブルに並べ談笑していました。


明日ケルンに帰る主役は1月からの半年間、基本的には本部の平和教育部門でのPraktikumだけど、週2で子供たちの日常の世話部でも働いていたので顔が広い。元Praktikantも集いました。同じ宿舎に暮らすメンバーで、その子がまさに好きそうなカゴを贈りました。喜んでもらえてよかった。ピザも彼女が仕入れたレシピや、彼女と仲の良い深夜帯のスタッフの友人(学生時代6軒のピザ屋でバイトをしたという)のレシピなどでとても美味しかった。でも製作部隊は割と疲れがでたため、皆だいたい2枚食べて満足していました。

翌日はお片づけ。パジャマパーティーからパーティー片付けの繰り返しも、これでようやく一区切り。この日帰る彼女もパッキングをこの日から始めたけど、夕方には素敵なお母さまが借りたレンタカーで去っていきました。慌ただしいけど、盛りだくさんの3連休でした。



2011年6月22日水曜日

感動



新幹線0系の引退や車両製造に携わる人など、電車にまつわるストーリーにものすごく弱いですが、
これはまさしく涙ものでした。1秒の映像がこんなに重要だったとは。。。
毎秒のなかに全く無駄のない最大の表現が詰まっていると思いました。
九州は電車がおもしろいと思っていましたが、新幹線の全線開通なんて悲願を勝手にあれこれ想像すると、
どこであろうと泣けてきます。
やはり動くなら陸で、電車でしょう。

2011年6月19日日曜日

とある日の翌日


朝、起き上がるのが辛い中、寝転びながら回りがすでに活動的に動いていることを察する。
前日、というかその日の2時半頃まで隣の部屋で飲んでいて、3時間程しか寝ていないなと計算する。驚くべきは、このパジャマパーティーを企画した職員とむしろ準職員とも言えるベテランボランティアのパワフルさ。同じく子供の間に寝て、6時に起床したらしい。普段6時半から子供を起こしにかかるので、場所はいつもと違えど、ここから普通の生活に戻ります。

結局大人の中では私が一番長く寝ていたらしいけど、そんな私も子供の着替えを手伝いにかかる。ほとんど起きているけど、2人程まだ布団に埋もれている子もいる。7時半から朝ご飯なので、普段生活している場に戻り、早番とも合流して、そこからはどうぞよろしくと言う感じ。ちなみに前述の職員は、遅番→早番というシフトに自らしたようで、自らも4歳の子供がいるのにタフだなぁと感心します。私らはマットレスと元のベッドに戻したり、後片付けをします。この時間には既に動いている大きい子供がいるので、彼らに手伝ってもらうと割とすぐ終了。そこから私も部屋に戻って着替えて、今度はこの日にPraktikumを終了し、翌日家に帰る子のお別れパーティーの準備。パーティー自体は本人が基本的に仕切るので、その彼女に贈る写真たっぷりの寄せ書き本を皆で仕上げていきます。

お昼を食べた後12時半、本部の日本人職員2人が車で迎えに来てくれて、オランダ方面に30分ほど走ったところにある、Weselというまちにある病院に、子供のお見舞いに行った。1歳半の5月にアンゴラから来て空港から直接病院に搬送された男の子。この子のもとには、毎日登録ボランティアの人がお見舞いやお世話をしに来てくれるそうだけど、ちょうどこの祝日の週末は都合がつかなかったそうで、誰か行ける人はいないか、平和村のメーリングリストで連絡があった。皆他のPraktikantは、割と子供が入院しているところを目がけて旅行をするようにお見舞いに行く人もいるけど、まだ誰のお見舞いも行ったことがなかったので、行くことにした。まだ会っていない子のお見舞いに行くのは不思議な感じだけども。

(小児病棟にある子供の遊び部屋) 

小児病棟の集中治療を行う病室にいるとのことだったが、ナースステーションにベビーカーに乗せられて私たちを待ってくれていた。誰ベースで誰のまゆげで誰の輪郭でと即座に浮かんだほど、なかなかかわいい“えりちゃん”。本名が固いので勝手にこう呼ばせて頂くことにした。左足の付け根から足首まで、金属の固定具で骨が固定させられていて痛々しいけど、その足首から先がよく動く。打ち解けるのに2時間程かかったけど、最後は歯を見せて笑ってくれてとてもよかった。私は最近爪切りが好きで、割と入院している子は爪を長くしたたま帰ってくることもあり、えりちゃんの爪も長めだったので、看護師さんに爪切りを借り切ってあげた。嫌がられたけど、これで靴とか履くほうが痛いのです。

(ナースステーション前にて)

ドイツの総合病院に行くのはこれが2度目だけど、エントランスから病棟までどこもかしこもすっきりしていて気持ちがよい。病院にいて気持ちがよいというのも変だけど、日本の病院と比べると、慌ただしい感じもなければ、ごちゃごちゃした感じなんてまったくない。むしろ見た目にも仕事的にも、私たちの仕事が余計にごちゃごちゃさせていたと思うが。それはともかく、そんなに数も多くないであろう入院中の子供に対して、あの面積を病室ではなく遊び部屋にできる余裕。むしろそういう法律でもあるんだろうか。すばらしき人口密度でした。
2時間ほど滞在して、病院を後にする。日曜だからか余計に人が少ない気がする。
ちょっと長くなってのでこの辺で。まだまだこの日は続きます・・・


2011年6月15日水曜日

とある日の前日


とある日の前日。

偶然、というかあまり熟考されず作成されたシフトのせいで(それができないのは労働環境に問題アリ)、1ヶ月と1日ぶりに早番のシフトに入った。休暇を1週間挟んだけど、要するに遅番しか入っていなかった。
ちなみに早番は6:30〜14:30、遅番は14:00〜22:00。深夜帯はその専門のスタッフが入る。仕事が始まる15分程前に事務所に行き、一通りの情報に目を通してから動く。早番の場合、前日長々と起きていられない(そういうたちではない)が、終わってからまだまだ一日がある。朝起きるのが少しきついだけで、私は早起きが苦な人ではない。遅番の場合、理想では早番と同じ時間に起きたいが、ゆっくり寝てしまい、仕事があることを頭に入れて動かなければならないのが少し苦。でも子供が20時には遅くとも寝に入るので、接する時間が少ない分、身体が楽。
本当はその前日2日も早番だったのに、遅番に代わってほしいと職員に言われ、代わった翌日、二度寝をしてそれを知らせる電話の音で起きました。6:38に携帯の時刻を見て、6:45には職場に着ける環境。むしろ外から回る必要があるけど、同じ建物の下に住んでいます。

ひさびさの早番は、子供を起こすところから始まり、終業までひたすら子供に追われる具合なので、時間が過ぎるのが早く、終わったときはなんだか新鮮でした。これを1ヶ月していなかったのかと。そんな今日もこの日ぶりの早番で、相当行っていなかった金属の固定具(見た人にしかわからないけど、BLACK SWANでウィノナ・ライダーが付けていて、病室に見舞いに行ったナタリー・ポートマンが驚いた装具)を付けた子供たちのシャワーを監督しました。朝食後にリハビリに施設に行き、そこでシャワーをした後、その固定具のコントロールや新しい包帯が必要な子供が処置をされます。遅番ではないので、それも新鮮。ああ私覚えている!(当たり前)という感覚になりました。

それはそうしとして、6月から最後の3分の1が始まりました。
なんだか色々問題があったし、常に問題(深刻な)はありますが、何が来てもどーんと構えて働けるようになったと思います。やること自体に慣れるのにはそんなに時間がかからないけど、時間が経つにつれてやはり知ることが多くなり、色んな人(正規職員)の働き方や頭の中が少しずつ見えてきて、気持ち的に楽になったと思います。私が来た時にこの時期にあった人の落ち着きぶりがわかる気がします。
何せ、3ヶ月ごとに約100人の子供が国に帰り、約100人の子供が新たにやってきて、さらに同じくPraktikumをしている仲間の入れ替わりもあるので、出会いと別れが本当に常。子供との別れはそうではないけど、仲間に関しては同じところに住み、働いているのに、なんだか鈍感(もともと?)になってしまいます。なにより落ち着いてふっとなれることが乏しい。ごーーーっと物事が過ぎていくようです。
頭の中の整理もしながら、時間をもっと有効に使い日々を過ごして行きたいと、まず3連休の過ごし方を考えた、とある日の前日でした。

写真は4月のとある日


2011年6月14日火曜日

とある日のこと


とある日のこと。

この日から初の3連休。基本的に2日連続の休みですら、月に1度しかないのでこれはすごいこと。偶然世間の祝日とも重なりました。恐ろしく拘束されている私たちなので、3連休もあったらどこかへ行ってしまいたい気もするが、色々とイベントもあり、部屋の整理をしたいので村でゆっくりすることに。
最近色んなことを考え、ここの黙々と一人になれる場所が基本的になく、目まぐるしく出会いと別れがある生活環境に疲弊していた。しまいには子供(4、5歳児の女子)たちとマッサージの会を開くほど。働いていたとき、辞める前はほんとによくタイ式や足裏リフレクソロジーに通っていた。誰かに本当にほぐしてもらいたくなったので、目を付けていたタイ式マッサージのお店についに行くことにした。

土曜日だったので開いているか心配したけど、そこは問題なく。ドアを開けるとあのスッとする匂いと同時に目にはいるタイらしい装飾。これを欲していたのか、泣きそうになってしまった。タイやアジアを卒業したはずなのに、あの癒しの香るタイの空気を懐かしく思う。お客さん対応中のタイ人のおばさんが出て来て、13時が空いているからと予約を取ってくれた。2時間ほど時間をつぶし、ちょうど頃合いの時間に戻り、少し待つと私の番。1時間のアロママッサージ、27€。アロマなしで25€と日本では考えられないお値段。果たしてどんなものか。オイルやアロマを使うマッサージを受けたことがないのでそれも初。言われた通りに下着のみになって、ヨーロッパサイズな施術台に乗って待つ。

受け終わって思った感想は、値段相応かなと。おばさんは感じがいいし、慣れていて良いんだけど、ざーっと一通り全身を流された感じがありました。要するに、本気のプロでは無く、便宜上のプロ。ルール工業地帯の時代を終えた労働者のまちで、良質なものが受けられるかということも期待半分だったけど。タイ北東部(Nong KhaiとUdon Thaniの間付近と理解した)出身のおばさんにどこで学んだのと聞くと、ドイツとのこと。タイ式マッサージ師養成ネットワークもドイツにあるらしい。私がドイツでSushiを学んだように。無収入なので通うわけにもいかないけど、また本当に欲したら行こうかと思う。凝り返しがなく、一定の満足度は得られるので。

写真は4月に撮ったもので晴天だけど、ここ最近は雨が一時的に降ることが多く、前より気温も下がった。店を出た後、雨に会ったのでちょっと大回りな路線バスに乗って村に戻った。
この日はBBQとパジャマパーティーが行われる。そのため私も準備を手伝おうかと思ったら、もう既に終わっていた。一人の正規職員と参加したいPraktikantが小さい子供と体育館(小規模)にマットレスを敷き詰めて寝る。BBQは全子供が参加し、単純にパンにソーセージを挟んだものが作られた。ソーセージを焼いているのは主に学びの場の職員とPraktikant。お決まりのように男子たちが食い物を求めて押し合うのを正規職員は傍観している。これがここの労働+子供が追い込まれた環境。偶然、週末2泊3日で学生のグループ(45名)が村に来ていて、彼らが飲み物の準備などをかなり手伝ってくれていた。私は休みなのであまりストレスなことはせず、テリトリーの小さい子供たちに食べ物が行き渡るようにし、彼らのもう食べられないとか飲み物が飲みたいという要望に答えた。

この後はいよいよ楽しみにしていたパジャマパーティー。普段遊びに行く場所に、自分たちのベッドが敷き詰められた状態に子供たちは大興奮。アイスが配れ、その後はひたすらぎゃーぎゃー言いながら敷き詰められたマットレスの上で思い思いに遊ぶ。子供たちの何人かは、私も今日ここで寝るのかと、誰かに聞いたことを確かめに聞いてくる。そうだよと答えるときゃーきゃーまた喜んでくれる。この空間にいる職員も子供も皆いい気分で楽しんでいた。その後さらにお菓子も配られ、みんな落ち着いて本などを見だした頃、その中の小さいメンバーが普段寝ているベッドへと送還。それ以外のメンバーもぼちぼちパジャマに着替え始める(着替えるのを手伝う)。。。そして正規職員の持参したノートPCで映画の上映。なんだか音が小さくて、Praktikantが持っているスピーカーを付けてもうまくいかないので、私のPCがおそらく音が割りと大きくなるかもと思い、結局期待したほどにはならなかったけど、そのまま見ることになった。少しして、じっと見ていられない子供(相当キャラの濃い愛されキャラ)と私はでんぐり返りなどをしていると、その子のスイッチを入れてしまったのか、顔面に何種類かの方法でかなりの痛みを与えてきた。他の子も来て髪も引っ張られるので、なんだか袋だたきにあったような気分だった。でもその後その子と絡んだPraktikantは顔面を流血させられていたので、セーフと言ったところでしょう。映画が終わるころには、職員やよく来てくれるボランティアもパジャマに着替え、気が付いた頃にはあの子を除いてほぼ全員の子供が就寝。その子の動きが面白いので皆で鑑賞して笑いました。ナイトサファリみたいだった。

この後、正規職員、深夜帯の職員やボランティアなど、従業員で子供たちが寝ている横の部屋(普段は子供が工作などをする部屋)で、飲みながら仕事のことなどを話したり、プライベートな旅行の写真を見たりして、なかなかないいい機会でした。この日遅番だった人は大変だったけど、翌日も休みの私は時間も気にせず気楽にがっつり参加して大満喫でした。子供と子供の間に寝れるスペースを見つけて横になり、眠りに落ちる。

2011年6月10日金曜日

6.11 脱原発100万人アクション

6.11 脱原発100万人アクション


友人のmixiの日記を読んで知りました。
日本は既に6.11ですが、日本全国、世界各地155箇所で、デモやイベントが行われるとのこと。
アクションが行われる場所がピンでgoogle map上に現されており、ピンが敷き詰められているにも関わらず、
私の指がなにげに動き、カーソルが示した詳細情報は、京都のアクションでした。
当たり前だとも思うけど、ここを失ったらきっと生きていけない。
京都だけじゃなく、日本を失ったら・・・

ドイツ、平和村での今の日常からだと、例えばすぐ近くにある亡命した人々が暮らす施設を目にし、
基本的に外国にいると気付かずとも気を張った状態にもあり、日本との地理的距離感からか、
なんだかものすごく淡白な気持ちになったりする。

けれども失ってからでは遅すぎる。手遅れになる前に色んな手を打たなければならない。

世界各地155箇所と言うことで、ヨーロッパに地図を動かすと、ピンが3つありました。
フランス・パリ、ベルギー・リエージュ、そしてドイツ・フライブルク。
さすがフライブルクと思って、そのアクションの詳細を見ると、
かつて自分も所属し、3月と5月の休暇でもミーティングに参加した、
日本人学生中心の環境保護グループ主催のイベントでした。

前述の友人との出会いもフライブルクだったけど、この狭間に偶然いた私は、世界の狭さを感じました。
とりわけ反原発色が強く、それに賛同する人が集うフライブルクだけど、
世界が狭く在るのならば、一人が声を挙げることによって、その声をまた聞いた人が
どんどん繋がっていくことが可能なのだと思う。

私は再生可能エネルギーが供給できる電力のみで生きたい



6.11 脱原発100万人アクション

2011年6月7日火曜日

Tübingen



 引き続き、3月上旬の休暇の回想を。

Tübingen、Freiburgを出た後、ドイツ鉄道のストライキに巻き込まれながら、約3時間遅れで到着。黒い森をぐるりとつなぐローカル線で、同じくストの犠牲となって知り合った子ともお別れ。彼女も私もドイツ南部を友達を訪ねて回っていて、「Freiburgにはほしいものがすべてあるけど、仕事がない」と言った私に共鳴してくれて、偶然こんな共鳴し合える子と出会ったことがとても嬉しかった。

駅で友達と再会し、荷物を寮に置いてからまちへ。
「なんでこんなに南は素敵なんだ」と角を曲がる度に私は連発。Freiburgとはまた違った南西部の温かみのあるTübingen。木組みの家やフェルトの小物を扱うお店が多いのが特徴。


Oberhausenでは特に見かけない、反原発を訴えるステッカー。地震後はさすがに見るようになりました。


外でコーヒーを啜る紳士淑女。

Freiburgも小さいけど、Tübingenはさらに小さく思う。さっき橋の上ですれ違った人と晩ご飯に入った店で会うとか。限られた範囲を皆ぐるぐるしているのか、知り合いとの遭遇率がやたら高いと住んでいる人も言います。ともかくここも素敵なまち。

子供が新聞に載っていました。


(写真は新聞に掲載されているものです)

お世話をしている子供が新聞に載っていたので紹介を。→ Berliner Zeitung, 01.06.2011
1月から6月までポツダムの病院に入院していたマルコジ。先日3日に退院し、平和村に戻ってきました。
術前は、先天性の下腿の異形で直立ができませんでしたが、特別に作られた靴を履き、誕生日に看護士から贈られたサッカーボールを思いきり蹴ることができます。
治療と入院費用は日本円で約350万円(本日のレート)。これが病院負担で賄われるというのがドイツの社会のすごさ。平和村の協力病院は100病院ほど、ドイツ全土からオーストリアまで広がります。
現在の治療段階では左足が右足より4cm短いマルコジ。8月に一度グルジアに帰国しますが、2年以内に再度渡独して治療すると、比較的普通の靴が履けるようになるだろうとのこと。このように外科的・内科的症状を問わず、何度か渡独をして治療を続ける子供がいます。母国での医療環境が、病院・家庭ともに整うことが望ましいですが、それが叶わない限り、平和村が存続される意味があるのだと思っています。

2011年5月25日水曜日

Vauban, Alfred-Döblin-Platz


Vauban、私の理想郷。この日は水曜日で週一回の市が開かれる日。かつてよりなんだか人が多く賑わっている印象。4、5年前に5、6000人ほどが住むエコロジー住宅地になるとされたVaubanだけど、住民は増えている様子。新たに建設中の集合住宅もありました。何より電柱などに"Vaubanで住居を探しています"の張り紙が多い。かつても張り紙を見たけど、Vauban人気は変わらずあるどころか高まっているようでした。犬を連れて散歩中の女性と少し言葉を交わしたけど、入居して1ヶ月足らずだとか。入居できたのはよかったけど、住居ではなく部屋で、それでも家賃が高いと。Freiburgはドイツの中でも家賃が高いけど、Vaubanはそのなかでも高いと言われる。それでもエコロジーな住環境の需要が継続してあるこの土地に、安心と確かな魅力を感じます。



このまま行くと飽和するんじゃという気もしないではないですが、Vaubanの動向は今後も傍から追いたいと思います。

Basel, Goetheanum


3日滞在したFreiburgの中日はBaselへ。電車で小1時間で着くスイスです。ドイツ側の駅から友人と歩いて街の中心部にあるおすすめお店へ。石釜だったか、伝統的に焼くパン屋さん併設のカフェ。こんな風にサラダを盛る盛りつけはぐっときます。


友人が住むのはシュタイナーの総本山ともいうべき、GoetheanumがあるDornach。一軒家を3人でシェアしていますが、この家もルドルフ・シュタイナーの愛弟子にあたるような人が建てたそう。だからはやり出で立ちがGoeheanumと似ていました。家の裏にはやぎが何匹か。一人は出産間近のお母さんらしく、今日にも生むかもという予想でしたが、まだでした。


やぎのいる生活、シュタイナー建築の家、こんな素敵なバルコニーにすぐ出られる部屋、落ち着いた優しさ溢れる同居人など、日々Ruhrpott:ルール工業地帯の一郊外の特殊な空間で子供に追われる私からすると、もうなんて贅沢な暮らしなんだろうと思いました。


辺り近辺にあるお店はほぼビオなお店。暮らしに必要な食糧品から消耗品まで揃います。ビオなスーパーはドイツ各地にあるけど、チェーンではなく、ビオな個人商店が一帯を占めているのがすごい。


友人宅の屋上からも見えた徒歩すぐのGoetheanum。友人は新年をここで明かしたそう。なんて幻想的。


なかはこんな感じ。基本的に柔らかく、角を落としたようなデザインです。Hundertwasserにも通じるものがあるような。
興味はあったけど、実際Baselに着いた後に友人の家が近くだとわかり行くことができてよかったです。