2011年8月7日日曜日

誰もわかってくれない


また書きたいことが沢山あるのに書けず、頭の中のタスクが溜まる一方な日々を送っています。
ここにいるのも最後の2ヶ月。果たしてここにいるうちにどれだけ処理できるのか。

ちょっと勝手に悲観的になりますが、
別に私は秘密主義な訳でもなんでもなく、ただ人との共有の仕方がわからない、不器用な人間だと思いますが、自分が嬉しいことを初めて人に伝えた時でも、「おめでとう」と言ってもらえない時には、さすがに凹みます。自分という人間に対して不安になるし、余計に開き直りそうでもう嫌です。自分がどれだけそれを望んできたか、伝達不十分で、かつそれは一般的に見るとあまり素直に喜べるべきことではないのかもしれないけど。私が無知なだけで。
私の絶対的な味方になってくれる人は、人間でいるのか疑いたくなる。
それだけ私はどこかおかしいのか。

確かに声の出る発声もとは特徴的だと、最近子供にマネをされるのでわかるけども(小学校の時もそんなことがあった)、私だって孤軍奮闘しているだけなのです。私という人間をちゃんと理解してもらうことが、こんなに自分が苦手で難しいと思わなかった。単純に私が言葉を沢山発する割には、その本意を伝えられてないことが原因だと思うけど。それなのに、勝手にわかってもらえていると期待し過ぎるから。なんて痛い子なのでしょう。
私の絶対的な味方はどこかにいるのか。

例えば何か物を頂くとする。近年よく集まってきたのは、何か綴ることができる物。要するにノートや書くものなど。確かにこうしてたまにブログに書くし、それを見てくれた上でそれを贈ってくれるのは嬉しいけども、私は紙には日記を書かない。むしろネット上に置くことで、それを所有することを避けている。他の使用の仕方もあると思うけど、結局まだ日の目を見れていない。私は物を所有することに関して、非常に慎重になりたいのです。小さい頃から気難しかったのか、現金をもらったりもした。どうしてだろうか。また、一時的にとても肩入れをするものが、単純に無難だろうと読まれるのか、そういったもの。

例えば何かメッセージを頂くとする。大抵よくあるのが、私はそのまま突き進んだらいい、という趣旨の文。肯定してもらっているのは有り難いけど、私は実験台かと思う。傍から私がどうなるのか、好奇の目で見られている気になる。ただそれだけ。
これが負のスパイラルかどうかは、今のこの状況から脱しないとわからないけど、そうだといいなと思う反面、そう思うことを解決しないとまた同じ目に遭う。


先日、来年平和村勤続40周年になるベトナム出身の職員の家に呼んで頂き、お昼を御馳走になった。写真はその時のもの。

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