2010年12月31日金曜日

年越しにぶたを欲する


ぶたネタが続くとは思いませんでしたが、どうも私は年越しの際にぶたを欲するようです。
それではよいお年を、Guten Rutsch ins neue Jahr!


2010年12月30日木曜日

薬局で薬を買ったらブタが入っていた


年末、というだけで、どうもぼうっとしてしまうのは私だけでしょうか。
こちらのクリスマスは日本のお正月みたいなもので、年越しは日本のクリスマスみたいな感覚でお祝いをするものだと思います。ただ私はクリスマスに対する意欲が希薄なので、割とその感覚のままこちらでも過ごしてしまいました。それでも何枚かカードは書くので、例の“とりあえず身の回りのことができるエリア”で、カードを選びました。
日本に宛てるものもあり、クリスマスが過ぎてから着くことを想定して、年越しの文句が添えてあるものを探しましたが、これがかなり少ない。そして昨日再びそのエリアに行くと、クリスマスカードは撤去され、極少量の“新年用”のカードがあるのを見つけました。その絵柄のモチーフは、シャンパンのボトルやグラス、花火に、コイン、そしてブタ、クローバー、てんとうむしが主流です。後ろの3つはドイツでは幸運のモチーフで、要するに新年に縁起がよいものをということで、カードに表されています。

先週の気圧による頭痛・眼球痛を経て、鼻風邪で耳と鼻が詰まった状態が続いています。それを打破すべく、よく効くと友達が教えてくれたホメオパシーの薬を薬局で買いました。帰ってから気付いたのですが、袋にブタが入っておりました!しかも陶器です。ちょうどこういうものが欲しいなと別のブタを見ていたところだったので、嬉しさ倍増でした。
薬局でお会計をする際、袋は入りませんと言おうかと思いましたが、ないがしろにして言いませんでした。もし言っていたら、ブタは手渡しだったのだろうかと、その後の展開を妄想します。

私が何かをもらう率が高いのかなんなのか、この薬局では以前も来年度のカレンダーをもらいました。日本はドラックストアが横行して、自営の薬局が押され押されて痛々しいことになっていますが、こちらは地域に根ざした薬局がどこにでもあります。こうして利用者にブタまで還元してくれる潤沢振りはすばらしいなと思いました。
dm(デーエム)というドラッグストアもありますが、こちらでも私はポーチをもらいました。ポーチの中にはマニュキュアも入っていて、しかも色が好みだった。いくら以上お買い上げの方、というわけではなく、その日レジで会計をするお客皆に渡しているようで、前にいたおばさんも、こんなの私初めてもらったわと喜んでいました。
ドラッグストアのチェーンは他にもありますが、薬局が喰われることも喰うこともなく、互いに共存できる関係にあると思います。何故だかは知らないので、ブーちゃん(ブタ)を横に置きつつ、ちょっと調べてみようと思います・・・ 

2010年12月24日金曜日

気圧に弱い疑惑


先週土曜日、朝から頭に違和感を感じるも、通常通り遅番の仕事に行く。するとどんどん悪化する頭痛、加えて寒気も感じ、これは風邪の前兆かと軽快する。どうにか仕事を終え、宿舎の話し合いがあったけど、欠席させてもらい就寝。
翌日、熱気は感じないものの頭痛と連動するような眼球の痛みがかなり辛く、始めて仕事を休ませて頂くことになった。
風邪対策に漢方を飲んでいたけど全く効かず、寝ても治らない頭痛なんて始めてだったので、これは翌日医者に行かないととそのつもりをする。ちょうど2連休で念願叶って友達が遊びに来てくれるのになんだかな、と思いながらそういえば頭痛薬を飲んでいなかったので飲んでみる。すると割とすぐに効いて治まった。
一体なんだったのかと思うが、聞くところによれば、土曜日に激しい気圧の変化があったらしい。そのせいで頭痛を発症する人が割といたそうだ。自分の原因もこれだろうと納得したので、とくにその時の気圧を調べたりなんかはしていないが、宿舎にいた他の人は大丈夫だったし、飛行機の移動の際に頭痛になったこともないので、自分が気圧に弱いのか、なんなのかはよくわからない。とりあえず今は鼻風邪を引いて、鼻をかんでは耳が通るということをくり返している。

今日は仕事が休みだったので、ちょっと用事をしにDüsseldorfまで行こうと思っていたが、大雪と路面凍結のため、バスが全面運行中止になったと出る寸前で連絡を受けた。それでもバスで5駅先の、とりあえずの身の回りのことができるエリアまで、歩いて行くことにした。誰かが歩いた跡を目がけて足を着地させ、30分ほど自分に雪を積もらせながら、地味に必死に歩く。
最近気づいてしまったことだが、雪を踏む感覚は発砲スチロールを踏むか持った時に身体が覚える感覚に似ている。
私は小さな頃から発泡スチロールが本当に嫌いだったので、雪=発泡スチロールを連想してしまうことにショックを受ける。

暑い国より、寒い国の方が合っていると思うし、精神的に暑いより寒い方が、気が確かでいられると思うが、雪が積もらない程度の場所がいいなと思った。ベルリンへ行きたいと漠然と思っていたが、きっと私に寒すぎるし、その寒さに勝るほどの情熱がきっと無い。南へ行きたい。南と行ってもミュンヘンのあるバイエルン州は結構寒いので、やはり南西部がいい。月曜日に再会できた友達はまさにその辺りから来てくれたが、こんなに雪は積もっていないし、こんなに寒くないと。ここのこの雪景色は1月に入ってからの景色のようだと言っていた。今年は雪が降る時期が早く、寒いらしいが、南西部の天気予報を見ると氷点下以上の日が続いているので、本当に南西部への想いを馳せてしまう。
自分の体質に合う気候的条件の土地に住むことは重要だ。寒いことに耐えられないひとは暖かいところに行けばいいし、暑いことに耐えられないひとは寒いところへ行けばいい。

こちらのクリスマスは24日の午後から店が閉まり、明日明後日の本番に向けて世間は動いているようですが、平和村のクリスマスは30日にお祝いをします。色んな宗教の子供がいるので、それに配慮をしてとのことです。
225人分の子供と遊び部屋用のプレゼントを綺麗な包装紙で包みますが、子供に渡った時点で即ゴミと化す、この包装紙の使用に疑問を抱かずにはいられません。それ以前に、隣に広大な自然があるのに、基本的に平和村の密度の高い敷地内だけでしか遊べない子供をかわいそうに思います。子供を想って室内の遊ぶアイテムを充実させるのはわかりますが、片付ける身としてはプレゼントを包みながら気が重くなります。

2010年12月15日水曜日

これが不満期というものだろうか。



前回の投稿からして、現在、理想と現実の狭間にぶち当たっていることは明らかですが、
なにより、いかに自分が成長していないかがよくわかりました。
やはり書き出すということはよいですね。
色々と考えていることはたくさんあるので、ここに書くことはたくさんあるけど、
書ける環境が手に入りにくいので、なかなか書くに至らず、流れてしまっていると感じる今日この頃です。
大人数で共同生活をしているということと、何よりネット環境が非常によくないので、さくっと書いてどんと上げるということが非常に難しく、その時間の無駄とも言える長いアプローチが、億劫にもなってしまうわけです。写真の添付なんて相当時間がかかるので、パリの投稿なんかは本当に書きたい欲求と気合いで上げていきました。

ともあれ、何から書いていいのかわからなくなるほど、色んな紆余曲折を経てきている。
何を私がよく考えているのかと言えば、ここの労働環境、日本人インターン生が取り巻かれている奇妙とも言える環境、その日本人と共に働くドイツ人たちの働き方、自分の今後についてなどなど。とりあえず、働きはじめの集中的吸収体制を経て、子供たちの扱いに関してはある程度は慣れたので、今度は対同僚に関するところに焦点が変わってきたというところ。

この職場における日本人労働力の割合は、欠けてしまうと回らなくなるほど大きいが、賃金なしの労働を好んでできる人を、昔なんかはほぼ無条件で受け入れていたため、コミュニケーションの問題が歴史的に常にある。以前はドイツ語の能力の有無に関係なく、ただ、ここにいる子供たちを援助したいと遥々極東から来た人がいたのだそうだ。だからこそ、ドイツ語の学習歴があることがここで働く条件になった今では、かつて働いてきた日本人たちと比較して、ドイツ語ができる日本人が来るようになったと、ここで長らく働くドイツ人には思われているのだ。

ここからは個人で解決しようと思えばできることかもしれないが、そんなかつての日本人に慣れてしまったせいなのかドイツ人の正規職員は、単純な指示を出すに留めている人がいるように思う。仕事中は基本的に目まぐるしく動いていることが多いので、何かについて少し話をするような時間も特にないが、あるとすれば、たばこ休憩。私なんかは少々引くのだが、ここの正規職員のほぼ全員が喫煙者。それに対してここで働く日本人全員は非喫煙者。だから、たばこ休憩の間に取り交わされる情報量が、あながちバカにならないと思ったりする。それらは必ずインターン生に行き渡るべき情報ではないと思うが、そうしてリラックスしている時に取り交わされる細々とした情報を聞けないことは、結局のところコミュニケーション不足に繋がっていると思う。

このところ本当に痛感しているのが、ドイツ語で言うreden: 話し合うということをしていないと言うこと。
それをすることを特に求められてもいなければ、仕事外だとドイツにいるのにわざわざドイツ語を求めに行かないと、その機会はない。2ヶ月半ここに居て、ドイツ語でredenをしていないことから、なんだかうっ血しそうな気分になったりする。これが目下の最たる不満だろう。自分がここで重視しているのは、読むこと、書くことなので、話すことは優先順位の最後だったのだが、これを留めてしまうということは、色んな問題が頭の中だけでうごめいて何の解決も図れないことに気がついた。むしろ、これが解消されれば、大体のことが解決される気さえもする。見えない壁を築かないうちに、手近なところから崩していこうと思うのである。

写真はクリスマスが近づくにつれて、パン屋に出現するWeckmannたち。私の中で通称:おじさん。
週に一度、食糧やケーキなどがキッチンより頂けますが、たくさん居たので色々遊びました。


2010年12月4日土曜日

ふと、ここで我に返ろう

(こんな書き出し方もしたくないが)、こちらに来て早2ヶ月。
1ヶ月目、ようやくまた来ることが出来たドイツに少なからずとも喜び、
平和村やPraktikum: インターン自体にもまだ期待を抱いていた。
そしてパリに行き、何かに目が覚める。
2ヶ月目、仕事には慣れてきたものの、毎日同じタイムスケジュールで繰り返される子供の世話というものは、
パターン化してしまうものだと気づき、今後を危ぶむ。

だけれども、そんなこと、分かりきったことだったのだ。
平和村がきっかけで、「ドイツ」という国を選んだけども、決してここで働こうと思ったわけではなかった。
だけれども、そんな平和村という活動が成り立つことはすごいと思うし、
愚直な私はなんだかんだここに来てしまったわけだ。
大学卒業後のすべての行動を、会社を辞めてこちらに来ることに仕向けて来たけど、見切りを付けるのも早かった私は、
支出を押さえて生活のできる平和村のPraktikumを選ぶことになったのだ。
今、私に必要なことは、部屋に籠ってドイツ語の文字に浸かることで、それに適していると踏んで、ここに来たのだ。
初めて平和村を訪れた3年前、「無理かも」とたじろいだ程、恐ろしく自分が好む生活と遮断を余儀なくされる生活が、
ここでは出来るのだ。

だけれどどうだろうか。
どうも本調子ではない体調を理由に、仕事の疲れを理由に、なんだかんだ宜しくない。
人に指摘をされるまで、そんな認識はなかったけれど、外国にて非母国語の社会に属し、かつ子供を操ると言うことは、
すごくストレスのかかることらしい。
月400時間ほど働いたこともあった私からすれば、月の休みは少ないけれど、毎日ほぼきっちり8時間の就業で仕事が終えられ、むしろ自分が望んで来ている国にいるのだから、ストレスなんて減るものだと思っていた。
確かに国はそうだけど、全く好んだ生活が出来る場所ではない。

私を取り巻く環境を居住空間から見ていこうと思う。
2人部屋に同じくPraktikumをしている日本人♀と、この部屋のある宿舎の同じフロアに、同様の日本人10名とグルジア人1名、ウガンダ人1名と共同生活。宿舎と同じ敷地内にある、約200名の子供を収容可能な施設が私の職場。
子供は男の子、女の子、小さな子供の3つの部門に分けられ、私が担当している小さな子供は約30名。
彼らは1歳から4、5歳でアンゴラ、アフガニスタンなどの中東の戦争や紛争地域から来ている。この子供たちを3、4名の従業員が早番、遅番と交代で世話をする(深夜帯は業者、もしくはZivi:良心的兵役拒否者に委託)。
ドイツの団体なのだから、もちろん仕事上の使用言語はドイツ語なのだけど、会話が全く問題がないわけではないが、基本的には毎日似たり寄ったりの指示を正規職員から受ける。子供とも滞在が長い子供ほど、ドイツ語で問題なく意思疎通ができるが、最近は11月初めにアンゴラから来た子供ばかり担当していたので、彼らのポルトガル語ばかり聞いていた。
仕事外は宿舎がほぼ日本人なので日本語。と、言うように自分の動きようにも寄るが、基本的にドイツ語のコミュニケーションの向上を期待できるような環境ではない。

そしてオーバーハウゼンという街。
この人口20万人規模の中位中心都市は、かつてのルール工業地帯の中心都市のひとつだった。
だけれどその時代は私たちが生まれることには衰退し、今ではその工場跡地に巨大ショッピングレジャー施設が建っている。それに伴い、この労働者の企業都市にも一応あった旧市街地は復活不可能な打撃を受け、他のドイツの魅力的な都市に見られる旧市街地からすれば、あまりに悲しいことになっている。
オーバーハウゼンはその昔に3つの街が合併してできた街で、平和村が位置しているのは南北に広がる街の北部である。
ちょうどその北部の中心部の辺りでドイツでも主要なアウトバーンが交差し、南へぶったぎっているため、ものすごく、
アウトバーンやその軌道を利用する車が身近である。
公共交通手段と言えば専らバスで、平和村( Friedensdorf) というバス停からは1時間に2本、1路線のバスしか出ていない。
これを利用し、5駅先の小さな中心地で接続のあまり良くない乗り換えをしないと、乗車から40分後に中央駅へ着くことはできない。
路面電車も1路線のみあり、隣街(と言っても大きくはない)まで行くことができる。初めて試しに乗ってみた時、あまりに不愉快な乗客に対する騒音に、路面電車の利用率を下げるために運行しているのかと思ったほど、路面電車のイメージを覆す衝撃を受けた。
これらの街としての要素は全くもって私が望んでいるものではなく、むしろその相反である。

だから机に向かえるはずなのだ。

状況としてはかなり自分を追いつめているので、要は後は自分次第なのだ。

ようやく平和村について、自分の置かれている状況について少し書けたけど、
今まで書きたい欲求が特に起こらなかったのは、口頭で事を共有できたからだろう。
会社時代、私は常にアウェーだったけど、ここはどちらかと言えばホームなのだ。
皆それぞれ目的はあると思うけど、ほとんどのここにいる日本人は高校、または大学かワーホリなどで1、2年はドイツにいたことのある人なのだ。遠いか近いかで言うと、確実に近く、理解のできる範疇の同僚なのだ。
口頭で発散できることは多いが、だからこそ容易に流されてしまう。
それが紛れもなく注意すべきポイント。

いかに自分をほどよくコントロールできるか。
まさしく、それが今の自分から脱却するための鍵である。

2010年11月17日水曜日

パリからドイツに帰って来た時に感じる落胆 ⑤


さて、ここからが本題。
伯母&伯父に見送られて乗車した、Thalysの内装にまず思う。
「ドイツの車両ではあり得ない“色”だな」と。
ドイツだけでなく、日本でもこの色が座席シートにチョイスされることはないと思う。
Thalysはフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ間を走る国際特急だが、
各国鉄の株式保有比率のうち、ドイツ鉄道が占める割合は10%という、走行区間に応じた少なさ。
4カ国語放送も楽しみながら、列車はパリを後にする・・・

通路を挟んで同じ列に座っている夫婦はドイツ人。
ドイツの新聞を沢山持ち込み、生活に戻る準備をしている。
約2日ぶりに聞こえてくるドイツ語の感触を確かめながら、この2ヶ国を色々と比較してみる。
(以下、仏*独の順)
好まれるフォント:流線型*角張り
好まれるめがねフレーム:丸形*四角 
手軽に食べられる食事:パニーニ*ケバブ
アルコール:ワイン*ビール
体格:男女とも割とスレンダー*男女ともに割といかつい
髪の色:ブルネット*ブロンド
身だしなみ:おされ*特に気にせず
などなど・・・

表面的に見ると、フランス的なものの方が好みだったりします。
それが明らかになった頃、ブリュッセルに到着。
同じ車両に乗り込んでくる、ドイツ人のグループが。
なんと言うか、うるさい。
グループだからなのか、なんなのか、何か少し忘れていたものを不快に感じてしまいました。


ケルン中央駅からデュッセルドルフに移動し、行列のできる人気のポメス屋さんに行ってみる。
オランダ風と称するポメスは平たく、ケチャップも多いだろうと思いながら、
結局はちょうどいいくらいに消費した。
ポメスは好きだけど、この見てくれの色気のなさは否めない。

ハロウィンの日曜日だったためか、仮装した若者たちが街をうろうろしている。
彼らの仮装、基本的に黒い。もしくは血を出している。
なんでこうワンパターンなのかと、パリならもっとバリエーションが見られるだろうにと、幻滅してしまった。
パリでそれを見たわけではないし、たまたま目に入ったのが黒かっただけかもしれないが、
オーバーハウゼンに着いてもなお、ことごとく黒く、ゴシックだった。
普段着において、フランス人は黒の使い方を知っているが、
ドイツ人はただ単に黒に逃げているようにしか見えないことが多い。
パリと比較すべきではないと思うが、
予め心得えていないと激しい落胆を味わうほど、
ここは単純に郊外で、この街に期待できることは特にない。

結果的に目を覚ますことになった、パリ滞在記でした。


2010年11月13日土曜日

パリからドイツに帰って来た時に感じる落胆 ④


ゆっくり起きる日曜日の朝。
1日半の滞在だけど、前日がなかなか盛りだくさんだったので、すでに満足気味。
こんなに欲が浅かっただろうかと、自分に驚きます。
行きたいところはほぼ行ったし、後はムール貝を食べればThalysに乗れる。
お昼まで時間があるので、大阪から来ている伯父と散歩に出ることに。


パリには何ヶ所か有名な蚤の市があるけども、最近は不況のせいか、区ごとによく蚤の市が開かれるらしい。
ちょうど家の近くの通りからサンドニの門まで市が出ていたので、なぞるように見て行くことにする。


雑貨や小物に本など、蚤の市的な物品もあれば、その大きさからかなかなか、目を引く中古の家具。
路上に持ってくる方も、買い手も大変だよなと思いつつも、素敵なものが多いので、
仮に自分がここに住んだとしたら、路上から拾うように買いたいななんて妄想を。
ヴィンテージもいいですが、こういう生活密着かつ,実用的なもののほうが好みかもと思いました。


サンドニの門。凱旋門のように開けた場所ではなく、一般的な建物に紛れてあるので、いつも少々存在に驚きます。
この南側はちょっとした娼婦街なので、昔は治安が悪いと遠ざけられました。
時間がまだあるのでオペラまでvelib'でこぎ、サンタン通りや昨日も通ったパサージュを抜けて、家に戻り
伯母も一緒に再出発。散歩の間、正確な時刻がわからず少し急いだけど、
サマータイムが10月31日になるタイミングで終わったとわかったので、時計を1時間戻しました。
短い旅の中ではとても得した気分になります。


伯父、伯母、私の3人で、在り付くムール貝の昼ごはん。
ムール貝を食べたいと思ったのは、京都で好きなイタリアンのお店で、ムール貝の美味しさを思い出したから。
昔(というのは高1の、初めてパリ=海外に来た時)、ムール貝の殻を両手に持ち、
ものすごくいい顔をした自分の写真があります。殻で身を摘んで食べるという作法が気に入ったのか、
“ムール貝”という食べたことのない、フランス的な食べ物が嬉しかったのか。
今回の滞在は、そんな昔を思い返すことが多かったです。
約10年前の記憶だけど、“Les Hallesの近くでムール貝を食べた”ということは間違っていなかった。
ただ、この日行ったそのお店はベルギーのムール貝チェーン店だったけど。


Les Hallesの北側に、ちょうどSantierから延びるマルシェの突き当たりに教会がある。
そういえば入ったことはなかったけど、きれいと聞いたので一瞬入ってみる。
なるほど確かに、観光名所になる教会ではないけれど、ステンドグラスやハイプオルガンの装備がよく、
全体的な感じが心地よかったです。天気もよかったしね。


そして急ぎ足で着いたGare du Nord。
前職柄か、伯母の移動に対する人の管理は相変わらず手厳しい。
30分以上余裕があるので、上から駅を観察する。
ちょうどモニュメントの所に、制服を着た子供と親が集合して、ユーロスターに搭乗するのを待っていた。
見るからに汚れのない子供たちと、派手ではなく身なりの感じがいい親たち。
だから何というわけではなく、ただそう思ったのだ。

⑤に続く。


2010年11月7日日曜日

パリからドイツに帰って来た時に感じる落胆 ③


夜ごはんはRestaurant Japonais "Kimura"へ。
今年の春にオープンした、伯父&伯母の「おばんざいとすし」のお店です。
久々にお惣菜が食べられることを楽しみにしていました。


開店前の店内。伯父が仕込みをしています。


カウンターにはこんな感じにおばんざいが並んでいます。
なんだかこういうものを見るだけで、テンションが上がります。


そしてどんどん出てくるおばんざい。
和食器はやはりよいですね。和食器があってこそ、
おばんざいが完成されるものな気がしました。
ひじきにお大根にわらびなど、どれも美味しいのですが、
あまり馴染みのなかったバイ貝が、お気に入りに加わることになりました。


こちらはすしとさしみ。お客さまに出す一歩手前を撮らせて頂きました。
このすし。日本でもこんな風にずらりと一直線に並んで出てきたら、
ぐっとくるものだと思うのですが、こちらだと感動ものです。
すしはパリに赴任して1ヶ月目の駐在員の方へ、
さしみは若い男の子とその祖父&祖母のテーブルへ運ばれて行きました。
後者のお客の組み合わせ、なかなか多いそうで、マンガ・アニメで日本に興味を持った孫が、
じいちゃんばあちゃんにねだって食べにくるという図式らしいです。

太巻きも食べ、お腹いっぱいでお皿拭きを手伝っているうちに、従姉妹登場。
初めてパーティに誘ってくれたので嬉しかったのですが、私には門限が定められることに。
着いたところはあるアパートの一室。ユニクロオペラ店のオープニングメーンバーとその周辺の集いでした。
だからか生まれ育ちがパリの日本人や、日本人と色んな国のハーフの子が多くて
パリの多民族ぶりを目の当たりにしました。
それが当たり前である、都会的な開けた感覚がとても心地よい。
また、なかなか大勢と挨拶で両頬にキス(bise)をしましたが、
ドイツではない習慣なので新鮮で、初対面でもなんだか親密になれた気が勝手にしてしまいました。
街によって回数が違うらしいけど、この場は2回だったな・・・
本格的に盛り上がる前に帰されてしまいましたが、
朝から行動しっぱなし+自転車こぎまくりで疲れてもいたので、若干残念なものの
それでよかったかなと思います。


おさらいがてら宣伝です。
「きむら」
38, rue Pernety 75014 Paris
昼は12:30〜14:00 夜は19:00〜22:00
月曜日と土日の昼はお休み
メトロのPernetyを出て右手の通りに見える、青い桟が目印で、隣は自転車屋さんです。
パリに来られた際は、是非とも行ってみてください。
美味しいおばんざいとすしが待っています。

④に続きます・・・




2010年11月6日土曜日

パリからドイツに帰って来た時に感じる落胆 ②


Palais Royal の工事中のストライプを見たあとは、Rivoliを渡ってルーブルへ。
地下のスタバの前にある郵便局: Le Post は、立地柄、土曜日でも開いているということで、
切手を物色しに行ったけど、そこまで購買欲をそそられるものは見つからず。
ただルーブル全般の物価の高さにびびり、すぐに地上へ戻ります。


Les Halles の無印に寄り、家を出てすぐに買ったサイドゴアブーツに疲れたので、ここからはvelib'で。
3年前よりポイントも増え、何よりドイツ語も対応になったのが良いです。
ただ機械も自転車もたまに"くせ"があるので、そこには要注意。


ぼちぼちお腹も減ったので、falafelを食べにRue des Rosiersへ。
何度か来ているけど、今までに見たこともないような人だかりが。
土曜日という理由以上に、前に並んでいた子連れのパパが言ったように、
「今日はみんなfalafelを食べる日」なんでしょう。
この店では店内でまず支払いを済ませ、外で受け取るのですが、両方合わせて1時間弱列びました。
たださすがは"マレ"。目の保養になるおされな人々が行き交うので、待ち時間も味わえます。


ピントがずれましたが、falafelです。このお茄子を含めて、もう美味しい。
ピタパンが破れて汁があふれ、少々苦労して食べましたが、それも道行く人たちにいい宣伝になったと思います。
お腹を満たしたらいよいよ左岸へ向けて出発。


もはや恒例行事とも言うべき「コンコルド攻め」


自転車走行中に写真を撮るのが実は好きです。
※もちろん安全第一※


今回のコンコルド攻めは、点数で言うと30点くらいでしょうか。
信号の付き所を把握できず、不必要な所で歩行者と化し、横目で何の問題もなく
交通の波に乗る自転車ライダーを何人も見ました。ああ悔しい。
左岸に渡るということは、前回のRivoliからシャンゼリゼにつながるコースとはわけが違います。


そしてやってきた左岸。Cafe de Floreを目指し、Boulevard Saint Germainをすいすい一直線に東へ。
右岸に滞在することの方が多かった私にとって、街路樹の雰囲気がまた新鮮で気持ちがよかったです。
初めて来てみたflore。さすがに土曜でお客でいっぱいで、一人で空いている席を確保する勇気も出ず、
ひと目見てみたいギャルソンの山下哲也さんらしき姿もなかったので、
すぐ横のfloreの雑貨屋さんを覗いて終了。
いつか堂々と鎮座して、サーブしてもらえる日を夢みています。


それから14区にできた伯父&伯母のお店を訪ねるべく、それらしき方向へ道を進める。
が、なかなかその最寄りのメトロの駅すら発見できないので、道を聞くこと2回。
最初のマダムも、2回目のマダムから広がったその辺の人たちも、とても親切に対応してくれた。
以前は地図を覚えたくてあえて道を聞かず、地図をフル活用して動いていたけど、
地図のない今回、パリの人たちの良い所に触れられてよかったです。

このお花屋さんの写真は、とてもパリらしい風景と思って撮った一枚。
主人の前で店番をするにゃんこちゃん。
また③に続きます。


2010年11月2日火曜日

パリからドイツに帰って来た時に感じる落胆 ①


「荷物を取りに行く」という名目で、初めての2日連続の休みを利用して、パリに行ってきました。


唯一無二な都市のひとつであるこの街に来たことに、特に大きく胸弾むことはなくなったけれど、
デカダンではなく単純に産業的に退廃的なドイツのある町から来た人にとっては、
後々色々な感情がのしかかって来るのです。


"GALERIE VIVIENNE"、偶然行き着いたこのパサージュには、実はゴルチエの本店がありました。


まあ、なんというか・・・


上も下も横も美しいわけで、自分もその一部になったような錯覚に陥ります。


そのすぐ南には、"PALAIS ROYAL"の北側の入り口があります。


中庭を囲んだ回廊を歩き、並々ならぬ店を横目見る。
Stella McCartneyのショーウィンドウのマネキンが、ハロウィン仕様で可愛かったです。


誰が撮っても美しく撮れる被写体がごろごろあるわけで・・・


やはりこんな風に自己満足。

こんな調子で②に続きます・・・



2010年10月20日水曜日

Tipps 1


“エディン持ってない?”
と同僚に聞かれて意味がわからず、それは何なのか問うと、
“太いペン”
とのこと。

それなら持っているわと差し出し、使用後に返してもらって初めて気づく。

日本で言う“マッキー”と同じではないか。

偶然なのか、なんなのか、所変わっても油性の太いマジックは固有名詞で呼ばれるらしい。


2010年10月18日月曜日

パウル君詣で


とりあえず、彼に会っておかねばと、最初の休みの日に行ってきました。
ワールドカップの時に占い師として活躍した、タコのパウル君を見に!



これは奥の方にいるのでわかりにくいのですが・・・



しばらくすると動きがあり、いい感じにタコだと主張してくれました。
小柄?でかわいかったです。

パウル君が住んでいるのは、“SEA LIFE”という、
世界各地に水族館などのレジャー施設を展開する、チェーンの水族館である。
彼のおかげで入場まですごく並ぶこともあるようだけど、
平日の午前中だったせいか、待ち時間なしで入ることができました。
水族館自体、ものすごく久しぶりだけど、
何か違和感を感じながら序盤のコーナーを見ていると、あることに気づく。

なんだか生簀のようなのだ。
入っている魚も食べられそうな魚に見えたり、
水槽が天井まで達してなく、上から覗けるので、
どうもそんな考えが浮かんでしまった。

でもそんなゾーンを過ぎた頃、やたら賑やかなコーナーがあり、
国旗が散っているので人々の隙間から覗いてみると、いました。
タコの寿命は3年ほどらしいので、今2歳半くらいの姿を拝めてよかったです。

目当てのパウル君人形も買い、とりあえず満足はしたものの、
15.9€も入場料を払ったわりには、大きな見所もなく(海遊館のジンベエザメのような・・)
順路をどこか飛ばしたんじゃないかと思ったほど、
私としては対価を見いだせませんでした。
※ただ私は水族館の相場も知らず、海の仲間たちにも疎いので人の見方に寄ります。

パウル君だけでは色気がないので、
他の魚たちも少しどうぞ。



むしろこの球体の水槽がよかった・・



あとはカワウソがかわいかったな・・・


2010年10月16日土曜日

丘を登る


私が実際住んでいるのはOberhausen: オーバーハウゼンの北西部で、
北には平和村の本部があるDinslaken、西にはルール工業地帯の中心都市の一つであるDuisburgがある。
バスで5つ中央駅の方へ行くと、Schmachtendorfという小さな町がある。
そこで一通り生活に必要なものは買えるので、たまに行ったりする。
先日、買いたいものがそこになかったので、さらに先のSterkradeというOberhausenの3大中心地の一つまで行こうとした。が、初の自転車での試みのせいか、道を誤り、Dinslakenの方へ出てしまった。

だいたいの私の長い前置きに慣れた人は、この間におそらく結末を推測したと思う。

丘を見つけたのだ。




マウンテンバイクでもすべりそうな砂利の坂道だったので、降りてしばらく上を目指して進む。
この小高い丘からは、結構遠くの方まで見渡すことができた。
私のタイミングがいいのか、割と自転車に乗るのが夕暮れ時だからのか、夕日もばっちり。
それと同時に、ここがやっぱり工業地帯なんだと、確認できた。

帰って調べてみると、この丘は"Hühnerheide"という、原野でした。


生い茂る木々の間に丘につながる道を見つけた時、帰り道が真っ暗になる可能性も考えながら、
どうしても足がそちらへ進んでしまった。
私としては、もうこの一人遊びを辞めたいのです。
誰か止めてくれる人はいないのでしょうか。


2010年10月13日水曜日

秋晴れの、静かな日曜日


平和村の外へ出ると、ここでの生活はまるでのどかな田舎暮らしをしているようだ。

田舎というのはちょっと言い過ぎで、郊外と言ったほうが適切なことに気づいた。
日曜日、当たり前にほぼすべての店が閉まってしまうドイツの日常に、久しぶりに入る。
ひとつひとつのことを、体中で噛み締めながら、気の向くままに自転車をこぐ。


馬に挨拶をし、


野うさぎたちには白いしっぽを見せられながら逃げられる。


そしてこんな風に自己満足。


こんなに天気のいい日には、車でもバイクでも自転車でも、ドイツの正しく整備された道を飛ばすには最適で、
老若男女(実際見たのは“老”が多かったが)問わず、気持ちよさそうに秋晴れの日を楽しんでいる。