2010年6月29日火曜日

Freiburg: McDonald's


合間にFreiburgのマクド状況をチェック。
FreiburgにはHbfとMartinstor下にマクドがある。Hbf: 中央駅 は内装当時のまま変化なし。MartinstorはMcCafeが堂々お目見え。完全に店内でマクドとCafeが分かれている。入ってすぐにCafeがあるので、バーガー等を必要としなければ、Cafeだけの入退店で完結するようになっていた。ただ両方ともWifi環境に何故かない。時期待ちなのかもしれないけど、ちょっとそれが残念だった。それでもマクドで陶器の容器でお茶ができるのは、私みたいなマクドから遠ざかっていた連中にはウケがよい。

MünchenでもMarienplatzに近いマクドに行ったけど、そこではドイツの携帯番号を持っていれば、Wifi環境に入れた。旅行者には優しくない気がする・・ ドイツの中央駅には必ずと言っていいほどマクドがあるので、Freiburgへ向かう途中、Augsburgかどこかでも待ち時間に入ったけど、さすがに駅ではWifiが使えた(記憶虚ろだけど)覚えがある。

それにしても香港から通じて痛感したのは、マクドが猛烈な勢いで変わろうとしていること。Wifi + McCafe(使い捨て容器不使用)を整え、新たな客層を迎える準備がドイツに入ってから特に目覚ましかった・・・ 日本もいい加減、同様であって欲しいと思う。紙コップでコーヒーなんて、ナンセンスでしょう。

ちなみにMartionstorを下った所や駅にスタバができていて、ショックでした・・ Freiburgにスタバは一つでよい、と思ってしまう。

(19. Feb. 2009)

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2010年6月27日日曜日

Freiburg: Vauban


Vauban在住時代、水曜日と言えばHaus 037の前の広場で開かれるMarkt: 市場の日だった。
バイト先でもらう米に追われたり、あまりちゃんと自炊というものをしていなかったので、この市場をよく利用していたわけではないが、雰囲気なら多分に味わっていた。このVaubanという特殊なエリアにおいて、地元産の食材が集まるMarktというものが機能していることを、当時もこの時も確認したかったのだと思う。地元の写真家が撮ったポストカードの写真でしか、雪景色のVaubanは見たことがなかったけど、足を滑らせそうな状態ではあるが、新鮮できれいだった。

当時、今思えば私はものすごくアンバランスな状態だった。というより、ただ捻くれ怠けていただけかもしれないけど。大好きなVaubanに浸っている自分に浸っているというお粗末な留学生だった。自分が大好きな所に無条件に居られるということは、それだけで満たされた気持ちになるので、ものすごく危険である。どうにか自然な形でVaubanに入ろうすること自体、何重にも何重にも議論を続けて作り上げられたこの理想郷を前にすると、無意味で浅はかな行為だったことが今やっとわかる。むしろそれ以前に、「行って住む」という思いが強すぎて、その先の目的というものが見えていなかった。

当時、Vauban至上主義で現実に存在する理想郷だと思っていた私に、Vaubanが嫌いだと言った人がいた。子供向けの文房具屋で、遊び道具を時間でシェアするシステムがあったのだが、それを「馴れ合っていて嫌」だと。有名な制度であったわけではないが、それはドイツ人的な思考を否定しているわけで、陶酔している私を醒ましてくれる意見だった。そういう見方もあるんだと、少し引いてニュートラルに見れるようになった。
それでも今改めて、Vaubanはやはり理想郷だと思う。
今になってようやく、村上敦 著「フライブルクのまちづくり」を読んだけど、私が当初思ったことは間違ってはいない。"Vauban"を頭に浮かべただけで、目が潤むのはきっとそのせいだ。


夕方より、お好み焼きパーティーに参加。ドイツ、韓国、日本の哲学専攻の学生の会話が専門領域に入ると、ただ見守るしかできないのが辛い。

(18. Feb. 2009)

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2010年6月26日土曜日

Kyoto: Red and Blue


INODA COFFE 
Sakaimachi street

2010年6月25日金曜日

Freiburg: Freiburg


到着後、Stadttheaterの前のOnkel Wokで夕食。久しぶりの変わらない味がおいしい。その後初めてMitteのバーガーキングに入り、奴はデザート、私はコーヒー。お互いの予定を確認し、とりあえずまた明日ということで。今回私はKappelに住む友達に泊めてもらうので、Straßenbahnで途中から乗ってくるその子と落ち合い再会した。

宿にさせてもらうその子以外とはほぼ連絡を取らず、その子にも到着まで口止めしてもらっていた。ここに居るのは5泊6日のみ。風のようにやって来て、風のように去ろうと決めていたのだ。もしそれ以上、ゆっくりしようものなら、私は確実に出られなくなってしまうだろうから。ちょうど同じ時期からずっと滞在しているその子は、学びたいことを学べる学校に行き出し、他にも色んなことに恵まれ私がいた当時よりずっと生活を充実させていた。心から喜ばしく思うけど、全然違う方向に歩み出すことを決断した自分でも、やっぱり後ろ髪を引かれてしまう部分があった。まだまだ眠気が来るのが早い私は、寝床を確保させてもらい21時には就寝した。

翌日、山に囲まれるKappelは雪退けつつ快晴。ゆっくりと支度をし、街へ向かうためバス停へ向かうとバスは行った所だった。バスとトラムを乗り継がなければならない若干の不便さを思うも、ここの空気はさすがに気持ちよい。スキップしかけると、アイス化した地面に足を滑らせお尻を強打。MitteでStraßenbahnを降り、よく覗いていた本屋: Jokers へ行くと、昨日会っていた(今日会う予定の)友達が。Freiburgが狭いのか、私たちの行動パタンが似ているのか。どちらにせよ、これも愛すべきFreiburgの一面に変わりはない。そこから連れ立って行くのは、大学構内のcafe。昨日聞いてショックだった、私たちの故郷、UB: 大学の図書館 が老朽化による改装をするため立ち入れなくなってしまい、とても残念だがこちらは何事もなく健在。夕方また別のcafe で落ち合うことにして、私はVaubanへ。

(17,18. Feb. 2009)

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2010年6月22日火曜日

München-Freiburg: 7時間鉄道


ミュンヘン2日目の朝、この日も出勤前のMさんと出勤前という時間の割にはゆっくりお話をし、家を出るときのポイントを聞いて見送った。今日フライブルクへ向かう。同じく(というか私に合わせてくれて)フッセン辺りからフライブルクに向かう友達と連絡を取り、乗り継ぎで落ち合う予定だったが。まだドイツ仕様に身体がならないのでぐずぐずしてしまい、München Hbfから落ち合うのは無理だということを連絡すると、若干攻められた。私も楽しみにしていたから残念だったけどしょうがない。でもそう言われるのもわかる。ふたりから一変、約7時間、1時間強ごとの乗り換えを4回一人で黙々をしながら西を目指すのだ。

私の場合はたしか、München > Augsburg > Stuttgart > Karlsruhe > Offenburg だったような。Stuttgart以降はFreiburgに住む場合、避けては通れない軌道。州チケットでつなげる、RE、RB、IREの旅。徐々に近づくので、より一層こころに色んなことを思い巡らせる。
本当は、ドイツで出会ったすべての人に会いたかった。BremenのGastfamilieには、Freiburg時代会いに行かなかった。別れる時にもらったゴールドの華奢なネックレスを、その当時(高3)は大人っぽすぎて着けられなかった。でも好んで着けられるようになり、この旅の出発の直前、ケースにしまうのを失敗したのか折れてしまった。Bremenへ行くと決めたわけではなかったけど、このことがものすごくショックでまた足を少し遠のけてしまった。
当時オランダ・マーストリヒトにもいたVelotaxi仲間にも連絡を取っていたけど、悔しいけど断念して、ドイツで移動的要因外で滞在するのはフライブルクだけにした。
卒業後、全く違う世界に入り、喪に服すように働く意志を固めていた私のこの時の強欲さは凄まじかった。

色んな記憶を思い出しながら、Freiburgに近づくに連れて少し緊張する。いい思い出も嫌な自分も含めて、そこでだけで感じる感情や思いが甦ってくる。20:00少し過ぎた頃、予定通りにFreiburg到着。一足先に着いた友達が来てくれるのを待つ間、駅構内を見て回る。バイトしていたSushi屋がなくなった(追い出されて移動した)のは聞いていたけど、その後がSubwayになっているとは知らなかった。そのかつてのFuna Sushiの前にあった店も、違うお店になっていた。でもその他は変わらない。私の歴史の中にあるFreiburg。友達がやって来て、怒っているかと思いきや、丁寧に“おかえり”とドイツ語で迎えてくれた。

(17. Feb. 2009)

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2010年6月21日月曜日

München: 目的


翌朝、時差ボケもあってか割と早くに目が覚める。Mさんがちょうど出勤の準備をする音がする。水分を欲してキッチンへ行き、お茶を飲みながらほっこりする。外は相変わらずものすごく寒そう・・・ 近辺のスーパー情報など教えて下さり、夕方に会う約束をして見送った。

前回もそうだったけど、私がミュンヘンに来るのはRegensburgに行く予定をしているからである。そこに住む友人に会いに行きたいのだが、今回もそれは叶わなかった。4月に出産を控えた妊婦さんであり、ギリギリまで体調次第で会えるかわからないという状態。今回も残念ながら見送ることになった。私も行くならこの日に日帰りで、と思ってたけど気温差に順応するのが難しく、万全ではなかったからよかったのかもしれない。先送りにした楽しみは、その時きっと何倍にもなって返ってくるだろう。

二度寝とメールチェックを繰り返し、キッチンにあるエジプトの噛めば噛むほどやみ付きになるお菓子を摘みつつ、外へ出る覚悟をする。なんとなく土地勘のあるMarienplatz周辺に行き、かつて来た時の記憶を呼び戻す。Pommesを売っている店が目に入り、寒いときにはPommes: ポテト だと思い久々のボリュームに胃が驚きつつも付いてきてくれた。それでも寒さは変わらない。2日前まで暑くて外に出られなかったのに、今度は寒くて室内に入りたがる。凍てつくような寒さなのにおじさん4人組が弦楽器で路上演奏をしていて感心してしまう。
温かい場所を求めてFünf Höfeに行ってみると、本屋:Hugendubel の入り口にHundertwasserが!!(写真) 開催期間はもうちょっとあるけど、本屋にこんなに図録がを並べるとは・・・さすがHugendubel(フライブルクにはなかったので、ミュンヘン中心の大きな書店と想像)と思い、目を輝かせながらコーナーに吸い付けられる。店内にソファがあるのでそこで見入る。見るからにリッチなミュンヘンマダムも横目に、レジにて購入。嬉しい出費。荷物の重量が増えるなんて全く気にならない♫  Wienを諦めた自分をなんとか宥めることができてよかったと思う。

この日は元々Mさんがお友達と、同居人のカメラマンさんのスタジオを見に行く予定だったらしく、私も誘ってくださったのだ。3人連名のスタジオ。同居人さんではない2人はパートナーで、その赤ちゃんがハイハイしていてかわいい。写真の仕事の他に、オーガニックの調味料のラベルのデザインも手がけているそう。この時期ミュンヘンで(バイエルンで?)好んで食べる習慣のある甘いジャムパンを買ってきてくださっていた。他の地域ではBerlinerというのが一般的だと思うけど、ここでの呼び名が出てこない・・・ 気の合う仲間と共同でスタジオを持って、好きな写真を撮ってクリエイティブに仕事をするなんて、じんわりといいなぁと思った。

(16. Feb. 2009)

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München: -30℃


ミュンヘンにしても空港から鉄道への接続がとても良い。そこから地下鉄で移動できてしまうなんて、当たり前だけど京都じゃとても考えられない。1時間ほどして、今回もお邪魔させて頂くお家の最寄り駅に到着。地上へ出るとまだ17時半くらいなのに暗い、寒い。暖冬のドイツしか知らない私は、こんなに雪のあるドイツを初めて見た。道が広いので番地がどちらサイドにあるのか見るのも大変。なんとか建物を捉えてベルの名前を確認し、ピンポンをする。

日曜日だったのでMさんも同居人さんもご在宅。34℃のバンコクから来た人にとって、何よりこの寒さが辛かったので、室内の温かさがしみわたるように嬉しい。ミュンヘンに来る度お世話になっているMさんの前のお家も素敵だったけど、今回のこのお家はなお素敵。ある年代までの古い住宅ならではの天井の高さとイイ床板とゆったりした造りに、カメラマンの同居人さんのセンスが光る光る。ほんと毎度のことながら、居心地のよい所に泊めて頂けることに感謝する。

(15. Feb. 2009)

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2010年6月20日日曜日

Bangkok-München: 11時間AirBerlin


※写真はフアランポーン駅ですが、鉄道移動したわけではありません。

朝6時頃、カオサンを出発してスワンナプーム空港へ向かうバスに乗り込む。外を見ると欧米系のすごく私好みなカップルがいて思わず見とれる。誰かを送るのか迎えるのか目的が見えないけど神妙な面持ちで何かを待っている。
バスは1時間ほどで空港に到着。特徴的な屋根が印象的な開放感のある造り。東南アジアの要所であるこの空港は、日本でODAで建てられましたと書いてあった。誰かに何かをこっそりカバンに入れられないよう注意は怠らない。パスコントロールで初めて顔を写真に撮られて若干びびりました。

ゲートでは既にBairischが飛び交っている・・ ミュンヘン在住のバイエルン人の皆さまは身なり持ち物が良い。シャツをきれいに着こなすおじさま多数。温かい羽織ものを準備する人ちらほら。これから皆で極寒のドイツの地に帰るのだ。
私のこの旅はAir Berlinありきと言っても過言ではない。今ではBeijingまで飛ばしてしまう、もはやLCCの域を越えたこの航空会社が、Bangkokとドイツをつないでいたからできることなのだ。かつてLondon-Berlin間で使って以来、シートの広さとサービスの良さとHPでわくわくできるのが好きで、私の中でお気に入りなのです。

10:00ちょうどにバンコクを発ち、横のおっさんとしゃべったり、映画を見たりして機内を楽しむ。映画は3本中2本が“ワイン系”だった。2本目がラッセル・クロウとマリオン・コティヤールの邦題:プロヴァンスの贈り物 だった。ラッセル・クロウは見終わってから名前を思い出したけど、この時初めて知った相手役のマリオン・コティヤールの美しさにやられた。ストーリーとしても見やすくて、あと映像が小さな画面で見ているのに眩しく綺麗でそれに惹かれてしまった。サントラとして使われている音楽で耳に付いて離れないものがあり、後から調べてみるもサントラのCDには入っておらず、なんとか発見したのがAlizéeのMoi Lolitaだった。結構前の曲なのに褪せない感じとPVにはまる・・・

画面が現在地を示す地図に切り替わり、オーストリアが目に入る。私の神、Hundertwasser生誕80周年の特別展“Der Unbekannte Hundertwasser: 知られざるフンデルトワッサー を見に行けないことに心がえぐられる。元はと言えばこれを見るのが大きな目的の一つでもあったけど、Wienを旅程にいれるのがかなり難しく、泣く泣く自分で断念したのだ。むしろここで落としてほしいくらい引き付けられる地を離れ、ミュンヘン到着。外は相当寒そう・・ 若干お腹を下しながら、若干遅いと思う頃、ようやくスーツケースが転がってきた。空港の出口に近いカフェでおっさんとお茶をして、1年半振りのドイツに不思議な感触を感じながら、地下鉄でMさん家に向かう。

(15. Feb. 2009)

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2010年6月19日土曜日

Bangkok: 2日目


とりあえず、南京虫には刺されなかった。2段目というのが当たりだったのかもしれない。船乗り場の方面のカオサン的な宿一階のテラスでぼーっとしながら小腹を満たす。
朝の船も気持ちがいい。Wat Poは王宮にすぐ近い。船を降りて割とすぐ近くに白い塀が現れ中に入る。有名なReclining Buhhdaもここにある。敷地内には大小さまざまな形の建物や塔があり、その細かく鮮やかな作業と穏やか空気が心地よい。マッサージ後は、鑑賞という集中力を使うことをしたくなくなることを予想して、ちょうど一番敷地の反対側にあるマッサージスクールを目指して、先にゆっくり見て回ることにした。
今回初めて触れるタイのお寺様式は、中国や香港のそれと同じに色はカラフルだけど激しさはなく、細かい感じがある。Nong Khaiでは中国みたいに赤とゴールドのみの派手な色使いの寺院もあったけど、ここはとても穏やかだ。日本で言うお地蔵さんに手編みの前掛けや帽子が装着されているように、ここでも仏像にいろんな装飾がほどこされ、人と交流している感じがとてもする。仏像の展示だったり、細かい区分けの中もほどほどに見て、いざマッサージへ。


単純に時間でコースが用意されていて分かりやすい。90分のコースを頼み番号札をもらう。受付のお姉さんがキュート。老若男女いろんな人が札を持って待っている。いよいよ自分のナンバーが呼ばれ、ここからは至福のひととき。推測するに私と同じくらいのお姉さんが担当してくれた。足先から全身をストレッッチをするように伸ばし解され、徐々に意識が飛んでいく。終わった後は身体が軽くなり、リフレッシュした感がたっぷり。色んなマッサージやら色々やってきた私にとって、一番の後味かもしれない。期待以上に大満足して、宿へと帰る。

翌日、Bangkokを発つけども、またBangkokに戻ってくるのでその時のチケットを買いにフアランポーン駅へ。また船で移動し、駅に近い船着き場で降りて徒歩で駅を目指すも、どうも地図通りに行かない。色んな寺院の標識に惑わされすぎたのか、チャイナタウンをどんどん進んでしまっていた。香港での免疫も効かず、アクの半端無く強いバンコクのチャイナタウンに平静さを奪われ朦朧とする。行けども赤とゴールドの漢字の看板、ゴールドだらけの宝石店、吊るされる鳥などの生き物たち、宝くじを売るおばちゃんたち・・・ それでもなんとか道を掴み、オレンジの布を纏う僧たちが乗っている、バスの暴走族並みのペイントにびびりながら駅に入る。


マレー鉄道のチケットを買う。バンコクで買えるのはバタワースまでのチケットで、その先はマレーシアに入ってから買わなければならない。その接続についてインフォメーションや販売している人に聞くも国外だからか無関心。参考書にも書いてるし、問題ないでしょうと今度は下の座席を購入する。

カオサンに戻り、お気に入りのGreen houseという宿のWifiが使えるカフェでまったりする。ピザを取りにきたらしいお客の兄さんが、バレンタインなのに一人で何してるんだい?と言ってきた。そんなこと私に関係ないけど、ここでは花を一輪持って母に手渡すような光景を見たりした。その後パソコンルームでAir Asiaのチケットを取ろうとするが、なぜか取れない。使ったばかりのカードが使えないと表示され、そういえばAir Asiaの店舗がカオサンを抜けたところにあったのを思い出し、閉店でギリギリでシャッターが閉まりかけている所を、必死の喧噪で入り込む。スタッフの兄さんに、取りたい便を告げ試してもらうがここでもダメ。限度額は越えてないはずなのに意味がわからない。妙な日本語混じりに説明されるが、現金では払いたくないので結局見送ることにする。出発日に近づく方が価格が下がると読んだのが、まさかの自体に動揺するも翌日は朝が早いので寝ることにする。

(14. Feb. 2009)

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2010年6月15日火曜日

Bangkok: 1日目


参考書情報により、ランブトリ通りにあるゲストハウスに狙いを定めてトゥクトゥクを降りる。
ランブトリというのはカオサン通りと平行に走る通りで、カオサンを中心としてここはもはやタイではない。混沌とした歴史ある、いわいるバックパッカーの聖域です。さくらハウスと言うゲストハウス(日本人宿)を探していると、迷い人に助け人が。方向を逆に進んでしまった私を韓国人の兄さんが正しい方へ案内してくれました。エスカレーターでそのビルの4階へ上がり、宿を発見。ドミトリーに2泊することにする。1泊150バーツはまぁ安い。指定されたベッドは2段ベッドの上。回り全員男子だけど特に気にならず。まだ朝なので寝ているひと多し。

ちょっと近辺をうろつくことにする。ほんとにタイとは思えないほど、欧米人、韓国人、日本人などの観光客にタイ人たちが商売をしている。スウェーデン人が多いのがなんとなくわかる。香港も多かったけど、ここでもセブイレが多い。明後日乗る空港バスを調べにカオサンから少し下るとイギリスのドラッグストア:Bootsがあった。さすがというか、香港のMARKS&SPENCERの次はタイでBootsかと、日本では起こりえない光景にちょっと喜ぶ。カオサンの入り口でfalafelの屋台があったので、1つ注文する。ピタパンにfalafelボールが5つほど入れられ、あとは自分で好きに野菜を詰めソースをかけ、仕上げればよい。私が食べてきたfalafelの5本の指に入る美味しさ。なかなか旨い。70バーツの幸せに浸るも暑さにめげ、宿へ引き返す。

よく言えばラウンジみたいに集える場所に腰かけ、バンコクでの動き方を考える。食がこういう特殊な地域でないと、アジアは私に辛いということもわかり、2日後だけど早くヨーロッパへ飛びたくて仕方がなかった。序々に起きて集まってくる宿の住人たちにも、アジア無理宣言をしてしまったほどだった。唯一バンコクでの楽しみは、ワット・ポーでタイマッサージを受けること。昼間は暑くて行動する気が起きないので、翌日早朝マッサージに行くことに決めた。
宿の住人たちはおもしろい。クラブで自称無実なのに暴行され、保険に入ってなかったため、腕骨折治療に30万払った人。その人がブラザーと称する、ほとんど日本に住んだことのない若い青年。私とは逆にヨーロッパからタイまで流れてきた人。運送系の肉体労働で稼ぎここへ来たものの、なぜか身体が言うことを聞かず、精神的に参っている常連の人。整体師の兄さんは、濡れ衣を着せられ刑務所で拘留中(服役中?)の日本人に会ってきたそうだ。バンコクが東南アジアの中心であることは、旅行者にとっても変わらないらしく、この宿を拠点にしようと思わずも、そうしてしまう場合が少なくないようだった。どこから来てどこへ行くのかという問いから始まる会話を、日本では会えない日本人たちとできて興味深かった。


パタヤー帰りの青年とミャンマーで癒されたい兄さんと、Wat Arun:暁の寺へ行くことになった。マッサージだけじゃなくて寺院もちょっとは見たいなと思っていたので嬉しい。ランブトリを川の方へ進んで行くと船乗り場があり、割と頻繁に往来する船に乗り込みWat Arunを目指す。
夕方のチャオプラヤー川の水面がエンジンの振動を受けて揺れて行く。片道約20分、12バーツほどの旅は気持ちがいい。身近な交通機関が船だなんて、そんなアトラクションに高揚する。Wat Arunは川岸にあるので近づいてくると降りる場所だとすぐわかる。思い思いにWat Arunを鑑賞するが、兄さんのカメラ熱はすさまじかった。愛機のRICOH GRで一心不乱というか心奪われるままにシャッターを切っていく。それでも仕事で販売するCanonの機種を持つ他の観光客には進んで撮りましょうかと声をかける。タイ常連者で実は京都も大学時代休みの度に2週間ずつ滞在して、大徳寺の座禅に通ったらしい兄さんは、しきりにタイ人の子と付き合いたいと口ずさむ。パタヤーデビュー後の同い年の青年も兄さんも、転職する狭間の時期だった。時期としてもそうだったし、位置的にもタイという地は向かいやすいのかもと思った。

カオサンに帰り、お土産を探しながら、尋常じゃないほど同じ場所を右往左往してしまった。明日ワット・ポーに行くのも楽しみだけど、駐車場でおばちゃんたちによって行われている、屋外マッサージを試すことにした。足だけを30分くらいしてもらったけど、なかなか気持ちよし。この心地も覚えて、タイガーバームで南京虫の予防をして眠りについた。

(13. Feb. 2009)

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2010年6月7日月曜日

岡本太郎の墓の衝撃


3月に家族で墓参りへ行ったとき、私だけ親戚の家に泊まらず一人行動をしてしまったので、墓前で集合ということになった。何度か行ったことはあるけど、いつも家族親戚に連れられていたので地図を渡された。
とても広い敷地なので、我が家なりの行き方が書かれていたが、実は著名人のお墓も結構あるらしい。
前日友人宅で予習も兼ねてお墓のHPを見てみると、いるわいるわ詩人・文豪・芸能・軍人などなど、昭和に活躍した日本人のオンパレードみたいだった。ふと岡本太郎の文字が目に入ったので見てみると、見たこともない墓石にびびる。翌日、時間があったら行ってみようと思った。
集合時間ちょうどくらいに着けたけど、思いのほか多く集まった親戚が既に順番に参っている。久しぶりだから話したいこともあるし、参る順番は来るし、浮ついた気持ちのままで墓参り終了。その後昼食でも行くかなと思っていたけど、それも叶わずあっけなく終わってしまった。

墓参りリベンジの機会をうかがうこと数ヶ月、ちょうど祖父の命日の2日後に行くことにした。
この前疎かにしてしまった分、気持ちを落ち着けてしっかりとお参りをした。実は詳しい所在地を覚えてなかったのだが、前回の身につけた感覚を頼りに少し探した結果、発見することができた。素晴らしき方向感覚。これで今後も一人でも間違いなく辿り着ける。

主の目的を達成し、サブ目的である岡本太郎の墓を探す。
都内最大の公園墓地という事実のごとく、静かで大きな緑がたくさんあって気持ちがいい。色んなお墓を鑑賞するのは初めてで、少し不思議な気分にもなるけどいいと思う。
ちょっと行き過ぎたので折り返してそれっぽい所に進んで行くと、発見。ちょうどこちらを見るいい角度でほおづえを付いている。
向かいには母かの子と父一平のお墓もあった。父の墓石のほうがとんでもない。川端康成が、この家族は日本を温かくする、と締めくくる碑もあった。太陽の塔を見たこともない、ファンでもない、ただミーハーな好奇心でついでに来てしまったことに許しを請い、写真を撮らせて頂いた。
もともと墓石としてではなく、「午後の日」という作品であったらしいが、一度見ると脳裏に焼き付いて取れないこの感じ。岡本太郎は墓もすごかった。

2010年6月6日日曜日