2011年6月22日水曜日

感動



新幹線0系の引退や車両製造に携わる人など、電車にまつわるストーリーにものすごく弱いですが、
これはまさしく涙ものでした。1秒の映像がこんなに重要だったとは。。。
毎秒のなかに全く無駄のない最大の表現が詰まっていると思いました。
九州は電車がおもしろいと思っていましたが、新幹線の全線開通なんて悲願を勝手にあれこれ想像すると、
どこであろうと泣けてきます。
やはり動くなら陸で、電車でしょう。

2011年6月19日日曜日

とある日の翌日


朝、起き上がるのが辛い中、寝転びながら回りがすでに活動的に動いていることを察する。
前日、というかその日の2時半頃まで隣の部屋で飲んでいて、3時間程しか寝ていないなと計算する。驚くべきは、このパジャマパーティーを企画した職員とむしろ準職員とも言えるベテランボランティアのパワフルさ。同じく子供の間に寝て、6時に起床したらしい。普段6時半から子供を起こしにかかるので、場所はいつもと違えど、ここから普通の生活に戻ります。

結局大人の中では私が一番長く寝ていたらしいけど、そんな私も子供の着替えを手伝いにかかる。ほとんど起きているけど、2人程まだ布団に埋もれている子もいる。7時半から朝ご飯なので、普段生活している場に戻り、早番とも合流して、そこからはどうぞよろしくと言う感じ。ちなみに前述の職員は、遅番→早番というシフトに自らしたようで、自らも4歳の子供がいるのにタフだなぁと感心します。私らはマットレスと元のベッドに戻したり、後片付けをします。この時間には既に動いている大きい子供がいるので、彼らに手伝ってもらうと割とすぐ終了。そこから私も部屋に戻って着替えて、今度はこの日にPraktikumを終了し、翌日家に帰る子のお別れパーティーの準備。パーティー自体は本人が基本的に仕切るので、その彼女に贈る写真たっぷりの寄せ書き本を皆で仕上げていきます。

お昼を食べた後12時半、本部の日本人職員2人が車で迎えに来てくれて、オランダ方面に30分ほど走ったところにある、Weselというまちにある病院に、子供のお見舞いに行った。1歳半の5月にアンゴラから来て空港から直接病院に搬送された男の子。この子のもとには、毎日登録ボランティアの人がお見舞いやお世話をしに来てくれるそうだけど、ちょうどこの祝日の週末は都合がつかなかったそうで、誰か行ける人はいないか、平和村のメーリングリストで連絡があった。皆他のPraktikantは、割と子供が入院しているところを目がけて旅行をするようにお見舞いに行く人もいるけど、まだ誰のお見舞いも行ったことがなかったので、行くことにした。まだ会っていない子のお見舞いに行くのは不思議な感じだけども。

(小児病棟にある子供の遊び部屋) 

小児病棟の集中治療を行う病室にいるとのことだったが、ナースステーションにベビーカーに乗せられて私たちを待ってくれていた。誰ベースで誰のまゆげで誰の輪郭でと即座に浮かんだほど、なかなかかわいい“えりちゃん”。本名が固いので勝手にこう呼ばせて頂くことにした。左足の付け根から足首まで、金属の固定具で骨が固定させられていて痛々しいけど、その足首から先がよく動く。打ち解けるのに2時間程かかったけど、最後は歯を見せて笑ってくれてとてもよかった。私は最近爪切りが好きで、割と入院している子は爪を長くしたたま帰ってくることもあり、えりちゃんの爪も長めだったので、看護師さんに爪切りを借り切ってあげた。嫌がられたけど、これで靴とか履くほうが痛いのです。

(ナースステーション前にて)

ドイツの総合病院に行くのはこれが2度目だけど、エントランスから病棟までどこもかしこもすっきりしていて気持ちがよい。病院にいて気持ちがよいというのも変だけど、日本の病院と比べると、慌ただしい感じもなければ、ごちゃごちゃした感じなんてまったくない。むしろ見た目にも仕事的にも、私たちの仕事が余計にごちゃごちゃさせていたと思うが。それはともかく、そんなに数も多くないであろう入院中の子供に対して、あの面積を病室ではなく遊び部屋にできる余裕。むしろそういう法律でもあるんだろうか。すばらしき人口密度でした。
2時間ほど滞在して、病院を後にする。日曜だからか余計に人が少ない気がする。
ちょっと長くなってのでこの辺で。まだまだこの日は続きます・・・


2011年6月15日水曜日

とある日の前日


とある日の前日。

偶然、というかあまり熟考されず作成されたシフトのせいで(それができないのは労働環境に問題アリ)、1ヶ月と1日ぶりに早番のシフトに入った。休暇を1週間挟んだけど、要するに遅番しか入っていなかった。
ちなみに早番は6:30〜14:30、遅番は14:00〜22:00。深夜帯はその専門のスタッフが入る。仕事が始まる15分程前に事務所に行き、一通りの情報に目を通してから動く。早番の場合、前日長々と起きていられない(そういうたちではない)が、終わってからまだまだ一日がある。朝起きるのが少しきついだけで、私は早起きが苦な人ではない。遅番の場合、理想では早番と同じ時間に起きたいが、ゆっくり寝てしまい、仕事があることを頭に入れて動かなければならないのが少し苦。でも子供が20時には遅くとも寝に入るので、接する時間が少ない分、身体が楽。
本当はその前日2日も早番だったのに、遅番に代わってほしいと職員に言われ、代わった翌日、二度寝をしてそれを知らせる電話の音で起きました。6:38に携帯の時刻を見て、6:45には職場に着ける環境。むしろ外から回る必要があるけど、同じ建物の下に住んでいます。

ひさびさの早番は、子供を起こすところから始まり、終業までひたすら子供に追われる具合なので、時間が過ぎるのが早く、終わったときはなんだか新鮮でした。これを1ヶ月していなかったのかと。そんな今日もこの日ぶりの早番で、相当行っていなかった金属の固定具(見た人にしかわからないけど、BLACK SWANでウィノナ・ライダーが付けていて、病室に見舞いに行ったナタリー・ポートマンが驚いた装具)を付けた子供たちのシャワーを監督しました。朝食後にリハビリに施設に行き、そこでシャワーをした後、その固定具のコントロールや新しい包帯が必要な子供が処置をされます。遅番ではないので、それも新鮮。ああ私覚えている!(当たり前)という感覚になりました。

それはそうしとして、6月から最後の3分の1が始まりました。
なんだか色々問題があったし、常に問題(深刻な)はありますが、何が来てもどーんと構えて働けるようになったと思います。やること自体に慣れるのにはそんなに時間がかからないけど、時間が経つにつれてやはり知ることが多くなり、色んな人(正規職員)の働き方や頭の中が少しずつ見えてきて、気持ち的に楽になったと思います。私が来た時にこの時期にあった人の落ち着きぶりがわかる気がします。
何せ、3ヶ月ごとに約100人の子供が国に帰り、約100人の子供が新たにやってきて、さらに同じくPraktikumをしている仲間の入れ替わりもあるので、出会いと別れが本当に常。子供との別れはそうではないけど、仲間に関しては同じところに住み、働いているのに、なんだか鈍感(もともと?)になってしまいます。なにより落ち着いてふっとなれることが乏しい。ごーーーっと物事が過ぎていくようです。
頭の中の整理もしながら、時間をもっと有効に使い日々を過ごして行きたいと、まず3連休の過ごし方を考えた、とある日の前日でした。

写真は4月のとある日


2011年6月14日火曜日

とある日のこと


とある日のこと。

この日から初の3連休。基本的に2日連続の休みですら、月に1度しかないのでこれはすごいこと。偶然世間の祝日とも重なりました。恐ろしく拘束されている私たちなので、3連休もあったらどこかへ行ってしまいたい気もするが、色々とイベントもあり、部屋の整理をしたいので村でゆっくりすることに。
最近色んなことを考え、ここの黙々と一人になれる場所が基本的になく、目まぐるしく出会いと別れがある生活環境に疲弊していた。しまいには子供(4、5歳児の女子)たちとマッサージの会を開くほど。働いていたとき、辞める前はほんとによくタイ式や足裏リフレクソロジーに通っていた。誰かに本当にほぐしてもらいたくなったので、目を付けていたタイ式マッサージのお店についに行くことにした。

土曜日だったので開いているか心配したけど、そこは問題なく。ドアを開けるとあのスッとする匂いと同時に目にはいるタイらしい装飾。これを欲していたのか、泣きそうになってしまった。タイやアジアを卒業したはずなのに、あの癒しの香るタイの空気を懐かしく思う。お客さん対応中のタイ人のおばさんが出て来て、13時が空いているからと予約を取ってくれた。2時間ほど時間をつぶし、ちょうど頃合いの時間に戻り、少し待つと私の番。1時間のアロママッサージ、27€。アロマなしで25€と日本では考えられないお値段。果たしてどんなものか。オイルやアロマを使うマッサージを受けたことがないのでそれも初。言われた通りに下着のみになって、ヨーロッパサイズな施術台に乗って待つ。

受け終わって思った感想は、値段相応かなと。おばさんは感じがいいし、慣れていて良いんだけど、ざーっと一通り全身を流された感じがありました。要するに、本気のプロでは無く、便宜上のプロ。ルール工業地帯の時代を終えた労働者のまちで、良質なものが受けられるかということも期待半分だったけど。タイ北東部(Nong KhaiとUdon Thaniの間付近と理解した)出身のおばさんにどこで学んだのと聞くと、ドイツとのこと。タイ式マッサージ師養成ネットワークもドイツにあるらしい。私がドイツでSushiを学んだように。無収入なので通うわけにもいかないけど、また本当に欲したら行こうかと思う。凝り返しがなく、一定の満足度は得られるので。

写真は4月に撮ったもので晴天だけど、ここ最近は雨が一時的に降ることが多く、前より気温も下がった。店を出た後、雨に会ったのでちょっと大回りな路線バスに乗って村に戻った。
この日はBBQとパジャマパーティーが行われる。そのため私も準備を手伝おうかと思ったら、もう既に終わっていた。一人の正規職員と参加したいPraktikantが小さい子供と体育館(小規模)にマットレスを敷き詰めて寝る。BBQは全子供が参加し、単純にパンにソーセージを挟んだものが作られた。ソーセージを焼いているのは主に学びの場の職員とPraktikant。お決まりのように男子たちが食い物を求めて押し合うのを正規職員は傍観している。これがここの労働+子供が追い込まれた環境。偶然、週末2泊3日で学生のグループ(45名)が村に来ていて、彼らが飲み物の準備などをかなり手伝ってくれていた。私は休みなのであまりストレスなことはせず、テリトリーの小さい子供たちに食べ物が行き渡るようにし、彼らのもう食べられないとか飲み物が飲みたいという要望に答えた。

この後はいよいよ楽しみにしていたパジャマパーティー。普段遊びに行く場所に、自分たちのベッドが敷き詰められた状態に子供たちは大興奮。アイスが配れ、その後はひたすらぎゃーぎゃー言いながら敷き詰められたマットレスの上で思い思いに遊ぶ。子供たちの何人かは、私も今日ここで寝るのかと、誰かに聞いたことを確かめに聞いてくる。そうだよと答えるときゃーきゃーまた喜んでくれる。この空間にいる職員も子供も皆いい気分で楽しんでいた。その後さらにお菓子も配られ、みんな落ち着いて本などを見だした頃、その中の小さいメンバーが普段寝ているベッドへと送還。それ以外のメンバーもぼちぼちパジャマに着替え始める(着替えるのを手伝う)。。。そして正規職員の持参したノートPCで映画の上映。なんだか音が小さくて、Praktikantが持っているスピーカーを付けてもうまくいかないので、私のPCがおそらく音が割りと大きくなるかもと思い、結局期待したほどにはならなかったけど、そのまま見ることになった。少しして、じっと見ていられない子供(相当キャラの濃い愛されキャラ)と私はでんぐり返りなどをしていると、その子のスイッチを入れてしまったのか、顔面に何種類かの方法でかなりの痛みを与えてきた。他の子も来て髪も引っ張られるので、なんだか袋だたきにあったような気分だった。でもその後その子と絡んだPraktikantは顔面を流血させられていたので、セーフと言ったところでしょう。映画が終わるころには、職員やよく来てくれるボランティアもパジャマに着替え、気が付いた頃にはあの子を除いてほぼ全員の子供が就寝。その子の動きが面白いので皆で鑑賞して笑いました。ナイトサファリみたいだった。

この後、正規職員、深夜帯の職員やボランティアなど、従業員で子供たちが寝ている横の部屋(普段は子供が工作などをする部屋)で、飲みながら仕事のことなどを話したり、プライベートな旅行の写真を見たりして、なかなかないいい機会でした。この日遅番だった人は大変だったけど、翌日も休みの私は時間も気にせず気楽にがっつり参加して大満喫でした。子供と子供の間に寝れるスペースを見つけて横になり、眠りに落ちる。

2011年6月10日金曜日

6.11 脱原発100万人アクション

6.11 脱原発100万人アクション


友人のmixiの日記を読んで知りました。
日本は既に6.11ですが、日本全国、世界各地155箇所で、デモやイベントが行われるとのこと。
アクションが行われる場所がピンでgoogle map上に現されており、ピンが敷き詰められているにも関わらず、
私の指がなにげに動き、カーソルが示した詳細情報は、京都のアクションでした。
当たり前だとも思うけど、ここを失ったらきっと生きていけない。
京都だけじゃなく、日本を失ったら・・・

ドイツ、平和村での今の日常からだと、例えばすぐ近くにある亡命した人々が暮らす施設を目にし、
基本的に外国にいると気付かずとも気を張った状態にもあり、日本との地理的距離感からか、
なんだかものすごく淡白な気持ちになったりする。

けれども失ってからでは遅すぎる。手遅れになる前に色んな手を打たなければならない。

世界各地155箇所と言うことで、ヨーロッパに地図を動かすと、ピンが3つありました。
フランス・パリ、ベルギー・リエージュ、そしてドイツ・フライブルク。
さすがフライブルクと思って、そのアクションの詳細を見ると、
かつて自分も所属し、3月と5月の休暇でもミーティングに参加した、
日本人学生中心の環境保護グループ主催のイベントでした。

前述の友人との出会いもフライブルクだったけど、この狭間に偶然いた私は、世界の狭さを感じました。
とりわけ反原発色が強く、それに賛同する人が集うフライブルクだけど、
世界が狭く在るのならば、一人が声を挙げることによって、その声をまた聞いた人が
どんどん繋がっていくことが可能なのだと思う。

私は再生可能エネルギーが供給できる電力のみで生きたい



6.11 脱原発100万人アクション

2011年6月7日火曜日

Tübingen



 引き続き、3月上旬の休暇の回想を。

Tübingen、Freiburgを出た後、ドイツ鉄道のストライキに巻き込まれながら、約3時間遅れで到着。黒い森をぐるりとつなぐローカル線で、同じくストの犠牲となって知り合った子ともお別れ。彼女も私もドイツ南部を友達を訪ねて回っていて、「Freiburgにはほしいものがすべてあるけど、仕事がない」と言った私に共鳴してくれて、偶然こんな共鳴し合える子と出会ったことがとても嬉しかった。

駅で友達と再会し、荷物を寮に置いてからまちへ。
「なんでこんなに南は素敵なんだ」と角を曲がる度に私は連発。Freiburgとはまた違った南西部の温かみのあるTübingen。木組みの家やフェルトの小物を扱うお店が多いのが特徴。


Oberhausenでは特に見かけない、反原発を訴えるステッカー。地震後はさすがに見るようになりました。


外でコーヒーを啜る紳士淑女。

Freiburgも小さいけど、Tübingenはさらに小さく思う。さっき橋の上ですれ違った人と晩ご飯に入った店で会うとか。限られた範囲を皆ぐるぐるしているのか、知り合いとの遭遇率がやたら高いと住んでいる人も言います。ともかくここも素敵なまち。

子供が新聞に載っていました。


(写真は新聞に掲載されているものです)

お世話をしている子供が新聞に載っていたので紹介を。→ Berliner Zeitung, 01.06.2011
1月から6月までポツダムの病院に入院していたマルコジ。先日3日に退院し、平和村に戻ってきました。
術前は、先天性の下腿の異形で直立ができませんでしたが、特別に作られた靴を履き、誕生日に看護士から贈られたサッカーボールを思いきり蹴ることができます。
治療と入院費用は日本円で約350万円(本日のレート)。これが病院負担で賄われるというのがドイツの社会のすごさ。平和村の協力病院は100病院ほど、ドイツ全土からオーストリアまで広がります。
現在の治療段階では左足が右足より4cm短いマルコジ。8月に一度グルジアに帰国しますが、2年以内に再度渡独して治療すると、比較的普通の靴が履けるようになるだろうとのこと。このように外科的・内科的症状を問わず、何度か渡独をして治療を続ける子供がいます。母国での医療環境が、病院・家庭ともに整うことが望ましいですが、それが叶わない限り、平和村が存続される意味があるのだと思っています。