2011年5月8日日曜日

さて、これから私はどこへ向かうのか


なんだか長い間書いていませんでした。
色んなことがあった3月4月。どんなことがあっても、もう3月11日以前には戻れないという現実。
それは被害の大小はあれど、少なくともすべての日本人がいつかその被害に合うだろう未曾有の惨事。

思うことはたくさんあるけれど、とりあえずこの2ヶ月を埋めてみようと思います。


祖母の来仏と約10日の休暇の狭間で忙しかった3月頭。2月末にPraktikant(インターン)の住む宿舎からもうひとつの宿舎へ引っ越し、その新しい住環境にも慣れないまま、再びパリへ発ちました。というのも本来一週間だった休暇の前に2日休みが貰え、休暇で使う予定の忘れてしまった鞄を取りに行くため。その後Freiburgへと念願の南下。3日の滞在の中日に行ったBaselへの行きの電車で、iPhoneを紛失。基本的に物をなくさない、かつ物が物なので大ショック。DBに落とし物登録をしたけど、1ヶ月が経過し、自動的に諦めなさいというお達しを受ける。iPhoneを紛失した原因として、鼻風邪で頭がぼーっとしていたことと、南西部の、自分が本来居たい大好きな所に、それと相反するルール地方から来た反動で、リラックスしすぎたこと。DBのストライキに遭いながら移動したTübingenの友達の住む学生寮で、地震と津波のニュースをまず知った。その後は休暇だけれど気が沈み、最後に訪れたMannheimから出かけたHeidelbergの爆撃された城を見ても、ニュースで流れる津波に襲われた映像や日本のことが浮かぶばかり。


平和村に帰って来て最初に知ったのは、来た時から知っている子供が亡くなったこと。こちらに来て以来、この結末をもって家に帰る子供は2人目で、自分たちの仕事を責めるなとは言われても、その状況を聞くと、遣り切れない気持ちになる。日本の原発、震災のニュースを追っても、自分のボランティアとしての労働力をここより日本の被災地に使いたいわ、という気がしてきたりもした。日本と関わりの強い、というより日本に資金と労働力を依存している非営利な活動を行う平和村の場合、これだけ頼っている日本の困難時にできることがかなりない。治療に来る子供たちのために寄付された運営費を、代表が私たちに、日本に帰りたかったら飛行機代を出すから帰ってよい、と言ってくれたのが最大の援助だろう。Düsseldorfのお寺での追悼式に平和村の皆と共に参加した時、Oberhausenでの原発反対デモに参加した時など、テレビや新聞のインタビューを受けた。日本人というだけで注目を浴びているような気がした時期だった。


今から思えば震災後の心理状況が拍車をかけていたのか、日頃の自分の部署のPraktikantを取り巻く労働環境に対する不満が爆発し、一応こうしたことを聞く機会として設定された場所で、持てる力のすべてを出して副代表に詰め寄った。こうした不満を持っているのは私だけではなかったので、ドイツ人のPraktikantが現場での具体例をうまく説明してくれ、非常に助けてもらった。それにしても半年間溜めてしまった、尊厳に関わる不満をドイツ語で抗議するのはなんとエネルギーのいることか。少量の消耗量で戦えるようになりたいと非常に思います。その後部署メンバーでのミーティングを経て、目先の労働環境は前より良くなったけど、根本的に組織に対してまだまだ不満と疑問はある。その根本的な不満が大なりになってしまったPraktikantが一人辞め、正規職員が一人解雇され、と一行に落ち着かないHeimbereich(子供のお世話をする部署)。


イースターはいつも私のいる小さな子供の施設を掃除してくれる清掃のおばさんが家にBBQに招待してくださり、ダーツなどもして楽しみました。そして来るアンゴラへの援助飛行で帰る子供たちのためのお別れ会。アンゴラの子供たちのダンスはほんとに催しものとしての見栄えがしますが、足に金属の装具を付け、痛がっていた子が立派に踊っている姿は感動ものです。5月10日、帰るまであと2日、言うことを聞かなくてもいいから無事に楽しく過ごせたらいいと思います。子供同様、なんだか落ち着かないけど、本当にとりあえずは無事に帰ってほしい。

気温27度の夏日和の平和村より、備忘録でした。

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